妖怪アメフラシの願い

宝や。なんしい

第1話

 信号待ちをしていると、河豚ふぐと目が合った。


 河豚は奇妙なまん丸い目をして、私をじっと見ている。たいていの生きものの目は丸いものなので、奇妙という言い方は違うかも知れない。


 信号が青に変わった。久しぶりに履いた慣れないヒールのせいで、一歩ぶん、流れに乗り遅れてしまった。信号を渡ってすぐの、てっちり屋の側壁にはめ込まれた小さな水槽の中に河豚はいて、私を見つめたまま動こうとしない。明らかに意志をもってそうしている。そんな感じがした。


 一匹だけかと思ったが、近づいてみると大勢の河豚が重なるようにして詰め込まれている。ほかの河豚の目もまん丸いが奇妙ではなかった。ふやけた分厚い唇をばくばくと動かしているだけで、そこに意志は存在しない。


 どのみちこの水槽にいる以上、彼らの運命は決まっている。じきに人間の嗜好しこうのまま命を捧げることになるのだ。そこに個人的な感情を投入することは、とても危険なことのように思えた。


 何もわからない子どもの頃なら、水族館の生き物と同じ感覚で、無邪気に観察することができたのだろう。あるいはもっと私がオトナであれば「おいしそう」と言って「こいつが一番大きいな。身が引き締まってぷりぷりしてるのはこいつかな」などと、笑顔で一匹一匹を選定できたのかも知れない。


 生命の尊さを認めることで生じる理不尽さ。


 感情の置きどころを見失ってしまうのが、私はとても怖い。


 ただ、眼力のやたら強いこの河豚だけは、何かが違っていた。

「何か言うこと、あるやろ」

 しゃべった。河豚だ。私ははっとして慌てて背筋を伸ばし、おはようございますと丁寧に挨拶をした。違和感を覚えたが、その正体を突き止める前にまた河豚が言った。


「今日から『宝や。』で働くことになったらしいけど、続けられるんか」

 なんでそんなことを知っているのだろう。不思議だったが、私は素直に「はい」と応えた。そして「頑張りたいです」と続けた。


「頑張りたい? 頑張りたいってなんやねん。ちゃうやろ」

「違う? 違いますか」

「全然違うで。『頑張る』って言い切るんや、そこは。希望ではあかんのや」


 確かにそうだと思った。私はいつの間にこんな臆病者になってしまったのだろう。


「おい、今、失礼なことを思たやろ」

「失礼なこと、ですか?」

「河豚ごときになんでそんなこと言われあかんねんって思たやろ」

「そ、そんなこと思ってません」

「噓つけ。わかっとんねん、こっちは何もかも。ええか、馬鹿にしたらあかんで。わしは河豚であって河豚でないんやからな」


 確かにしゃべれる河豚なんて今まで見たことがない。だけどそんなすごい河豚だって、この水槽から出るときにはさばかれて、ひれはちょん切られて板に張り付けられてしまうのだ。さながら公開処刑のように。


「あほかい。そんなどんくさいこと、このわしがされるはずないやろ」

河豚には私の考えていることもわかっているようだった。


「わしは、ここで仕事をしとるんや。ここは言わば、わしの職場や」

 そして背後で重なっている他の河豚たちにちらりと視線を投げて、軽蔑したように「ストックとちゃうねん、奴らと一緒にせんとってくれ」と言った。ストックと言われた河豚たちは相変わらず無表情だった。私は極力ストックには感情を移さないように気をつけながら「何のお仕事ですか」と聞いてみた。


「おまえさんは、洞察力が足らんな」


 河豚は呆れたようにそう言った。


 そして金箔を張りつけたような安っぽい瞳から光が消えたかと思うと、ストックと同じ顔つきになって、それきり話しかけてくれなくなった。


 私はまた失敗してしまったのか。アドレナリンが全身を駆け巡り、そわそわと落ち着かなくなった。だけど、河豚がしゃべるなんてあり得ない。我に返るとひどく馬鹿馬鹿しいことに気がついた。私は今、夢でも見ていたのだろうか。


 スマホを出して時間を確認すると、余裕で家を出てきたはずなのに、もう出勤の時間ぎりぎりだ。初出勤で遅刻はまずい。慌てて駆けだそうとして、ふと、傘をさしているのは私だけということに気がついた。いつの間に雨はやんでたのだろう。というか、いつの間に私は傘をさしていたのか。そもそもそこがはっきりしない。


 てっちり屋を越えてすぐの細い路地を右折すると、真正面に大きな朝陽が待ち構えていて強いエネルギーを放出していた。


 鋭い光は矢のように尖り、次々と目の奥にまで射し込んでくる。


 目をつむると暗い瞼の裏側に、色とりどりの光がシグナルのように明滅。やがて目をあけると、あたりはけやきの圧倒的な新緑。


 しっとりとした新しい香りに包まれて、まるで別世界に到着したような感覚になった。


 今日から私が働くことになった『宝や。』は、いわゆる町の小さなたこ焼き屋だ。個人経営で、従業員は後にも先にも私だけ。先のことはわからないけれど、大将はそう決めているらしい。もともと大将は誰も雇うつもりはなかった。あの日、私と出会わなければ。


 古い路地裏は舗装もされておらず、ずっと古の風景をたたえていた。突き当りには石段があり登り切ると正面に古い町屋の商業施設が見えた。『宝や。』はその一角にある。


「おはようございます」

 錆びついたシャッターが、店の半分のところまで降りていた。おそるおそるノックしてみたが反応がない。しゃがんでシャッターの開いている部分にもう一度「おはようございます」と、さっきより大きな声をかけてみた。薄暗い店内には人の気配はない。


 やむなく店の前で待つことにした。

 

 大雨の日、私はトラックに跳ねられた。急に降り出した雨にスリップしたトラックが、信号待ちをしていた私のところに真っ直ぐに突っ込んできて、私の身体は跳ね上がりぐちゃぐちゃになってもおかしくないくらいの衝撃を受けた。それなのに、なぜか無傷だった。


 私はその頃、会社で自分の居場所を失っていた。私は失敗したのだ。会社で。自分の人生に。だけど何に失敗したのか。どこで間違えたのか。なんでこんなことになってしまったのかどうしてもわからなかった。


 会社初の女性役員を任された時、辞退すべきだった。今まで必死で頑張ってきたことが認められたことに有頂天になって、ほいほい受けてしまったのが、そもそもの大きな間違いだったのかもしれない。


 いい気になってアホやな。

 実力で選ばれたと思ってるところが痛い。

 ある意味、かわいそう。

 女性として張り切ってくれてるけど、女性から見てもいい迷惑。

 あいつに指示されるの、我慢できへんねんけど。


 なんもできへんくせに。


 なんもできへんくせに。


 なんもできへんくせに。

 

 笑顔の裏の隠しきれない無数の声たち。じわじわと内側から殺していく。切り刻んでばらばらにして真っ赤な肉片だけになっても、涙を流すこともできずに生きながらえる。むきだしの心臓はどくどくと脈打ち、誰が何のために私を生かそうとしているのかわからなかった。


 あの時、トラックに跳ね飛ばされた時、素直に死んでおくべきだった。どうして生き延びてしまったのだろう。


 死にたいなんて考えたことなんてなかったけど、せっかくのチャンスを逃してしまったのだと思った。どんなに辛くて心が騒いでも、生きていればお腹は空くし眠くなる。自分の意思とは関係なく、身体は貪欲に生きようとする。


 なんてみっともない私。

 それなのに死に直面すると、こんなにも怖いのだ。

 震えるほど。

 無傷で助かったことを、奇跡だと喜んでいる自分が情けなかった。


 それから私は、どうやって過ごしていただろう。会社にも行かなくなった。誰とも接触することのない透明人間のような日々。生きているのか死んでいるのかわからない中、闇の奥から声が聴こえてくるようになった。


「このままでいいのか」

「悔しくないのか」



 突然、大音量がした。びっくりして思わず鞄が落ちた。

 大音量は『宝や。』の店内から聞こえてくる。管楽器のような音で、まるで店の中で実際に吹いているような趣があった。


 管楽器は音の調整をしながら、はじめはドレミを単独で鳴らしているだけで、音楽を形成しているわけではなかった。


 しばらくすると、メロディらしいものへと変わりはじめる。最初の爆発音のような激しいものでなくて、ふっくらと丸みのある音へと変化し、どこかで聴いたことのあるメロディの固まりになった。


 ほっとため息をついてなんとなく空を見上げると、直角に切り取られたビル群の隙間に薄っぺらい水色の空間が見えた。雨の降らない空、久しぶりだな。


「あれ? 来とったん?」

 シャッターが開いて、中から大将が現れた。


 いつの間にか大音量は消えている。陽に焼けた浅黒い肌に白い歯。背中に『宝や。』のロゴマークが入った黒色のTシャツに黒色のパンツ。酒屋がするような帆布の前掛けをして、頭には黄色いタオルを巻いている。


 これが大将のオリジナルユニフォーム姿。前もって渡された私のユニフォームもそんな感じで、ただ、腰巻きタイプの赤いエプロンとグリズリー柄の赤いバンダナが用意されていた。今まで誰も雇わなかったということなので、わざわざ私のためにこのユニフォームを用意してくれたのかと思うと、なんだか嬉しくなった。


「ごめん、ごめん。声かけてくれたらよかったのに」

 前に会った時は無愛想な印象だったのに、人懐こい笑顔についときめいてしまった。大将の年齢は知らないけれど、若そうなのできっと私より年下なんじゃないかと思う。無愛想なのも若さゆえの所業のように感じた。


「すみません」

 大将は、なんで謝るの? といった感じで首を軽く捻ったあと、私を店の中に入るように促した。

「とりあえず、着替えて」そしてちらりと私の足元を見て「草履もあるんでよかったら履き替えて」と言った。


 一日目だしちゃんとした方がいいと思ってスーツにパンプス姿で来てしまったが、確かにここには似合わない。

 私は、はいと応えて、着替えの準備をした。店内は思っている以上に狭くて、カウンター席に五人座ればいっぱいといった感じだ。


 私が着替えている間、大将は表で待っていてくれていた。最後に靴下をぬいで新しい草履を履く。綿の鼻緒は肌に優しく、あつらえたみたいにぴったり。


「さっきのは、サックスですか」

 店の隅に置かれている革のケースは、サックスが入るには丁度いい大きさと形をしている。大将はそう言われると、ほんのり顔を赤くした。


「聴こえてた?」

「ええ、ばっちり」

「そうかあ、やっぱ防音せなあかんなあ」

「バンドか何かされてるんですか」

「いや」

「ソロ活動とか」

「いや」


 ええと。シャイなのかなんなのか今ひとつ掴みきれない。


「何のために」と言いかけて、とりあえずこの言葉は飲み込んだ。好きなことをするのに理由を求める必要はない。好きなことを好きなようにすればいいのだから。頑張ったら頑張っただけの結果? 


 そうか。

 そんなもの、本当はいらないのかもしれない。


 開店は十一時からだが、それまでに、たこ焼きのタネと呼ばれる粉の仕込みをしなければならない。


 粉と練り合わせるスープは玉ねぎや人参、ニンニクやリンゴなどの数種類の野菜を皮ごと大きな寸胴鍋ずんどうなべに放り込んで長時間煮込む。水や野菜の分量などには決まりがあって、その通りにすればおいしいスープが誰にでも作れるようになっているらしい。すっかり形がなくなるくらいに野菜を煮込んだら、手拭いの生地で拵えた大きな布でこしていく。そうして透き通った黄金色のスープが完成。


 タネに必要なものはその他に、こだわりのメリケン粉と長芋や玉子、牛乳など。バケツいっぱいにそれらを放り込み、大きな泡立て器で攪拌する。

 なかなかの力仕事だ。力仕事には慣れていないが、きっとできないことはない。


 だが、仕込み関係は俺がするからと私にはさせようとしなかった。女だから遠慮しているのか、これがこの店の肝になる部分だから、新人などには任せられないと考えているのか、そのあたりの判別はできない。


 最後に、鉄板に火を入れる。


 油で馴染ませた鉄板から、ふっと煙のたつのを確認した大将は、満足そうに「よし」と言った。これでいつでもたこ焼きを焼く準備は整ったことになるらしい。



 夕方まで働いてみて気づいたことは、『宝や。』は、とてつもなく暇だということだった。今日だけなのか、それともずっとこんな感じなのか、いずれにせよ、私に給料が払えるのか心配になった。


 夜のとばりがおりて辺りがすっかり暗くなったころ、奥の椅子に座って腕組をしながらうとうと居眠りをしていた大将がむくりと起き上がった。

 驚いて「どうしたんですか」と声をかけたが、眠そうな目をしたまま何も言わない。


 鉄板の上に手のひらをかざして温度を確かめたあと、タネを流し込んだ。

 ややあってから、じゅうと焼ける音。

 そこに蛸をひとつずつ丁寧に手早く入れていく。

 ぐつぐつと溢れんばかりに沸騰するタネに、揚げ玉をまんべんなく敷き詰める。

 

 ピーンと張った緊張の瞬間。たこ焼きの返すタイミングを図る。 


 何度か練習させてもらったが、なかなかうまくいかない。この店のこだわりのタネは柔らかすぎて、素人では扱うのはかなり難しい。


 大将がいとも簡単にくるりとひっくり返すと、薄い皮にうっすらと焦げ目がついていた。まるでクレープのような繊細さ。


 丁度焼きあがったころ、女性が二人でやってきた。祖母に連れられた二十歳くらいの孫といったところか。何が可笑しいのかやたら陽気で、年齢はかなり離れているが、双子のように笑顔がとてもよく似ている。


 何も言われてもいないのに大将は、舟を二枚取り出して、たこ焼きをそれぞれ十二個ずつ入れた。そして「ソースマヨ、全部のせ」と言って私によこした。私は言われた通りに、定番のソースマヨで味付けし、ネギ、紅しょうが、かつお節をトッピング。二人は終始楽しそうに笑っているだけだった。常連のようで、言葉は必要ないらしい。


「今の、たぬきやで」


 二人が去っていったあと、大将がおもむろにそうつぶやいた。私は戸惑いながら「確かに狸っぽいですよね」と応えた。


 その後も、オネエ言葉の男の子や、酔っぱらいの陽気な女性、聞いたことのない引越し屋のトラック運転手など、ちょっと風変わりな雰囲気をまとった人が次々とやってきた。昼間なんかよりよほど繫盛している。


 十時を過ぎたころ、ようやく客足は途絶えた。

「そろそろ、閉めよか」


 表に出て暖簾のれんを下ろし提灯の電気を切った。曲がりくねった古い街道には人通りはほとんどなく、ひんやりとしている。

 さっきまでの賑わいが噓のようだ。


 店内に戻ると、たこ焼きの入った皿がひとつカウンター席に置かれていた。


「お疲れさん。残りもんやけど」

 水回りを片付けている大将が向こうをむいたまま声をかけてくれた。「好きなもん自分でトッピングしたらええわ」


 ソースは何種類かある。甘口ソースに辛口ソース。ピンク色のヒマラヤ岩塩に、黒コショウ入りの岩塩。ポン酢にだししょうゆ。どれにしよう。悩む。この店の人気商品は、売れ行きから見て、定番の甘口ソースか、岩塩ペッパーだ。


「いろいろ組み合わせてもええで」

 迷っているのが気配でばれたらしい。

「そういうのもアリですか」

「普通はせえへんけどな。まあ、いろいろ試してみて」


 お言葉に甘えて、たこ焼きひとつひとつに色んなソースをトッピングしてみることにした。欲張り過ぎかとも思ったが、色んな味を知っておくのも働く者の努めだろう。


 残り物とは言え、焼きたてはびっくりするくらい熱くて、とても一口では食べられない。


 お箸で真ん中を割ると、大きな蛸がごろりと現れた。まるでグラタンのようなとろとろの生地を口に放り込むと、口の中でねっとりととろけてゆく。野菜の出汁の効いた、あっさりとした生地。


 まずは岩塩ペッパー。ピリッとした黒コショウの辛さがアクセントとなっていて、マヨネーズの爽やかな酸味とまろやかさとが絶妙にマッチ。生地はゆっくりと食道を通り、ぽとんと胃の腑に落ちた。


 じわじわと身体の芯まで温まっていくのを感じながら、あの日食べたたこ焼きのことを思い出していた。


 土砂降りの冷たい雨の中、私はぼんやり街を徘徊していた。


 トラックに跳ねられてからというもの、私はまさしく幽霊のようになってあちこちを彷徨っていた。


 毎日毎日降り続く雨。


 辟易としながらも、閉鎖的なその中にいることに安心していたようにも思う。闇の声に導かれながら、闇に取り込まれようとしていたのかもしれない。


「やるべきことがあるだろう」


 ずぶ濡れになりながら、闇の声の言う「やるべきこと」を探し歩き続けた。


 私は何を失敗したのか。

 何が悪かったのか。


 雨は止むことはない。決して。


 次第に薄れていく。

 自分が自分でなくなるような。ずうっと奥の自分も知らなかった深くで、徐々に輪郭を失って崩壊していく。


 深い深い闇の中。そこに太い腕を差し込んで、造作なくぐいと引き上げる人がいた。

 大将だった。


「風邪ひくで」

 そして黙って『宝や。』に連れてきてくれた。目の前に置かれたたこ焼き。


「一口で食べたらあかんで。火傷するで」


 不器用な大将の声。


 たこ焼きは私の身体も心も芯から温めてくれた。私の内側にこびりついていた悲しい闇が、たこ焼きの熱さとともにとろとろ溶けて、そして少しずつ消えてゆくのを感じていた。


「どこも行くとこないんやったら、うちで働くか? 給料安いけど」


 最後に残った、あの日食べたのと同じ甘口ソース味のたこ焼きを、まるまる一個口の中に放り込んだ。たこ焼きの中はまだかなり熱くて、やっぱり一口で食べるのは無謀だったと後悔した。


「この辺りはひっそりとしてるのに、夜になると急に人が増えるんですね」

「夜になると結界が緩むからな」

「結界?」

「そう。まあ、うちはだいたいの客が妖怪やからなあ」


 どこまで本気かわからないけど「はあ、そうですか」と応えた。


「そういえば、この路地の手前にある、てっちり屋さんの河豚なんですけど」

「河豚?」と大将はちょっと考えたあと、「ああ、神野かみのさんね」

「神野さん?」

「あのおっさん、この辺を牛耳ってる人やから気をつけたほうがええで。まあ、無類の女性好きやから、あんたは大丈夫かな。しょおもないセクハラされるくらいで」

「ええっとお、河豚ですよね」

「うん、河豚やで」


 なるほど。

 大将は少し説明不足なところはあるが、だからといって特に問題があるわけじゃない。


 神野さんには気をつけたほうがいい。

 この辺は夜になると結界が緩み、妖怪の世界と繋がる。


 ただ、それだけのことだ。


「大将、救ってくれてありがとうございました」


 私はちゃんとお礼をいうことができた。大将は片付けものをしながら「何が?」と気の無いように言った。本当にわからないみたいだった。


「あの雨の日」


「ああ。別に。神野さんから聞いてたから。アメフラシが闇に取り込まれそうになってるから、助けたってくれって。お礼は神野さんに言うたって」


「アメフラシ?」

「あれ? 気づいてなかった? トラックにひかれて死にかけてたあんたを、アメフラシが取りいて救ってくれたんや。いわゆるあんたは妖怪アメフラシと人間の融合やな。珍しい状態や」


 私にはなんのことかわからなかった。


「おかげでアメフラシにつきまとう雨がやんだ。アメフラシにとっても長年の願いが叶ったというわけや」


 暗い水槽を凝視していると、重なったままじっと動かない河豚の中から、神野さんが滑るようにして現れた。


「今日一日、働いてみてどうやってん」

「はい、おかげさまでとても充実した一日でした」

「ほうか」

「神野さん、ありがとうございました」


 それは人間と妖怪アメフラシの二人からの、心よりの感謝の言葉だった。


「わしは何もしてへんで」

 神野さんはなんだかちょっと照れているみたいだった。

 この町を牛耳っているセクハラの偉いさんは、はにかみ屋さんなのかもしれない。


 私は、ふふふと笑って空を見上げた。


 きっと明日も晴れる。

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