第9話 欠落の論理

 朝が来ても、悪夢は終わらなかった。


 カーテンの隙間から差し込む光は、

 昨日までと変わらない、平和な街の朝を照らしているはずだった。


 だが。


 ベランダから見下ろした駅前の風景は、

 まるで、出来の悪いCGのように「剥がれて」いた。


 交差点の中央。

 昨日、柚月が指差した場所には、

 直径数メートルの**『真っ黒な穴』**が鎮座している。


 アスファルトも、

 白線も、

 信号機の一部も。


 そこにあるべきはずのデータが、

 根こそぎ消失していた。


 恐ろしいのは。

 その穴の周りを、人々が何事もないかのように歩いていることだった。


 彼らは、物理的に存在するはずの「穴」を無意識に回避し、

 その欠落を、脳内で勝手に『正常な道路』へと補完している。


 見えているのは。

 世界で、僕一人だけだ。


 ……。


 ……。


 歩けば歩くほど、欠落は増えていた。


 コンビニの看板が、黒く塗りつぶされている。

 公園のベンチに座っていた老人が、瞬きした瞬間に消える。


 そのたびに。


 僕のスマートフォンの通知が、狂ったように鳴り響いた。


『通知:リソース不足』


『通知:システム整合性の維持に失敗しました』


『通知:ファイル「sota_memories」』


『復元には、外部リソースの投入が必要です』


 ――ガシャン。


 背後で、激しい衝突音がした。

 振り返ると、タクシーが何もない空間に突っ込んでいた。


 そこは、先ほど僕が確認した『穴』の場所だった。


 野次馬が集まってくる。

 だが、人々はタクシーが「何に」ぶつかったのかを説明できない。


 彼らの記憶からは、

 そこにあったはずの『ビル』の存在自体が、すでにデリートされているのだ。


「航平……?」


 人混みの中で、聞き慣れた声がした。

 大輝だった。


「おかしいんだ。さっきから、知らない奴から何度も着信がある」


 大輝が見せてきた画面には、

 『不在着信:ソウタ』という名前が並んでいた。


「……! 覚えてるのか? 颯太のことを」


「いや。……名前は見覚えがある。でも、顔が思い出せないんだ」


 大輝の指先が、小刻みに震えている。

 記憶は消せても、魂に刻まれた『恐怖』まではデリートしきれなかったのか。


『助けて』


 大輝のスマホが、再び震えた。

 画面いっぱいに、文字が流れる。


『おれを わすれるな』


『おれが ボタンを おした』


『おれは まだ そこに いる』


「うわああああっ!」


 大輝は悲鳴を上げて、スマホを地面に投げ捨てた。

 そこから、ドロリとした黒いノイズが溢れ出してきた。


 ……。


 ……。


 辿り着いたのは、あの日、湊が飛び降りた崖へと続く山道の入り口だった。


 待ち構えていたかのように、彼女が現れた。

 黒い喪服。

 感情を読み取らせない、硝子の瞳。


「柚月……! 説明してくれ。これは一体どういうことだ」


 柚月は、大輝が捨てたはずのスマートフォンを手に持っていた。


「一人の死を『なかったこと』にするために、

 世界は、十年分の記憶を書き換えた」


「……もう、限界なの」


 柚月は、崖の先を指差した。


 水平線の向こう側。

 境界線がジグザグのノイズとなって、

 じわじわとこちら側の世界を飲み込もうとしている。


「颯太くんという『生け贄』一人じゃ、足りなかった」


「湊くんという『真実』を維持するためには、

 別の『嘘(現実)』を、もっとたくさん消費しなきゃいけない」


 柚月は、僕たちの目の前で、スマートフォンの画面をタップした。


『システム:次の削除対象を選択してください』


 画面に浮かび上がったのは、二つの名前。


 【 大輝 】


 【 美月 】


「航平くん。君に選ぶ権利をあげる」


 柚月の口角が、わずかに上がった。


「颯太くんをゴミ箱から引き戻す?」


「それとも――次に消える人を、君が選ぶ?」


 ポケットの中で、僕のスマートフォンが震える。  


 ゴミ箱の中にいる、あの男からのメッセージ。


 【 こうへい。 だいきを けせ。 】


 【 そしたら おれが もどれる。 】


 崖の上で始まったゲームは。  


 今、本当の意味で、僕たちの友情を蝕み始めた。

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