第7話 デリートの果て

 足元に広がる、無数の遺影。

 すべてが、僕たちが十年前から積み上げてきた「拒絶」の結晶だった。


 湊は死んだのではない。

 僕たちが、死んだことにし続けたのだ。


 あの日、湊が崖から落ちたあと。

 僕たちは震えながら、一つの「約束」を交わした。

 『誰も見ていない。何もなかった。彼は最初から、ここにいなかった』


 それは単なる口約束ではなかった。  


 僕たちは、日常のあらゆる隙間から湊の痕跡を追い出し続けた。

 SNSの集合写真からは彼の姿を加工して消し、共通の知人には「彼は転校した」と嘘を重ねた。

 やがてその嘘は、僕たちの脳内で「真実」へと書き換えられていった。


 一人が忘れるのは、ただの忘却だ。

 だが、集団が同じ嘘を突き通したとき、それは「現実」を塗り替える力を持つ。    


 湊の両親がこの街を去ったときも、僕たちは関心を持たなかった。

 彼らとの接点をすべて遮断し、記憶のフォルダから『湊』という名前を完全に削除(デリート)した。  


 その結果が、今のこの世界だ。  


 この共有ドライブは、僕たちが捨て去った「湊の破片」を拾い集めた墓場だったのだ。


「……あ、あああ」


 大輝が、自分の喉を掻き毟るようにして声を上げた。

 彼の目からは、これまで一度も流されることのなかった「湊への涙」が溢れ出していた。


「俺たちが……俺たちが、あいつを透明にしたんだ」


 美月も、震える手で自分のスマートフォンを見つめている。  


 真っ白になった画面。

 カウントダウンが終了したその場所に、新しいボタンが現れていた。


 『システムの初期化:実行しますか?』


「これを押せば、どうなるの?」

 美月が、消え入りそうな声で柚月に問う。


 ノイズの中に溶けかけていた柚月が、最後の一瞬、こちらを振り向いた。


「湊くんの記録が、世界に戻るよ。

 ……彼がここにいたこと。君たちが彼を追い詰め、見殺しにしたこと。

 十年前の『あの事件』が、明日、すべてのニュースに、すべての人の記憶に、正しく刻まれる」


 柚月の瞳が、僕たちを静かに射抜く。


「でも、それは君たちの今の生活が壊れることを意味する。

 積み上げてきたキャリアも、恋人との関係も、平穏な日常も。

 すべてが、加害者としての『代償』として支払われることになるけれど」


 ――静寂が、僕たちを飲み込もうとしていた。


 初期化すれば、湊は報われる。

 しかし、僕たちは地獄に落ちる。


 初期化しなければ、湊は永遠に消えたまま。

 僕たちは、このまま「何事もなかった十年間」の続きを歩んでいける。


「……颯太」


 僕は、スマートフォンの持ち主である親友の名を呼んだ。

 彼は、十年前からずっと湊の最期を見つめ、管理権限を奪ってまで保身を貫こうとした男だ。


 颯太は、何も言わなかった。

 ただ、震える親指を、液晶画面の『実行』という文字の上で静止させている。


 崖の下から響く音が、大きくなった。  


 ザッ。

 ザッ。

 ザッ。


 それは這い上がる音ではない。

 数え切れないほどの足音が、崖の向こう側から近づいてくる音。  


 僕たちが消した、湊の記憶たち。

 彼が愛した音楽、彼が描いた絵、彼が流した涙の音。

 それらが津波となって、僕たちの「嘘」を押し流そうとしている。


「……ごめん。湊」


 颯太が、小さく呟いた。


 カチッ。


 指先が、画面を叩く。


 その瞬間、世界から音が消えた。


 空が割れ、デジタルの光が洪水のように崖の上を埋め尽くす。

 僕たちの脳内に、十年間封印されていた「湊」のすべてが逆流してくる。  


 彼の笑い声。

 放課後の部室の匂い。

 一万円が消えたときの、彼の震える背中。

 そして、崖から落ちる瞬間の、あの絶望に満ちた瞳。


「うわあああああああああ!」


 誰かの叫び声が、光の中に消えていった。


 ……。


 ……。


 目が覚めると、僕は崖の上にいた。


 東の空が、白み始めている。

 潮風は冷たく、足元には遺影の山も、泥だらけの手もなかった。


 ただ、僕の手の中に、自分のスマートフォンが握られていた。


 画面には、ニュースの速報通知が並んでいる。


『十年前の不審死、再捜査へ。遺族が新たな証拠を提出』

『ネット上で拡散される動画の真偽。……「僕を殺したのは」』


 隣を見ると、大輝と美月が、地面に座り込んで力なく泣いていた。

 二人のスマートフォンにも、同じ通知が届いているのだろう。

 もう、逃げ場はどこにもない。


「……颯太は?」


 大輝が、掠れた声で辺りを見回した。


 そこに、颯太の姿はなかった。  


 ただ、彼が持っていたはずのスマートフォンだけが、岩肌の上に置かれている。


 画面は暗転していたが、その背面には、十年前の湊の「ガラケー」が、奇妙なノイズを放ちながら重なるようにして置かれていた。


 僕は、ふと崖の縁を見た。


 そこには、一人の少女が立っていた。

 白いワンピースを潮風にたなびかせ、朝日を見つめている。


 彼女はゆっくりとこちらを向き、ニコリと微笑んだ。

 その顔は、もう柚月のものではなかった。  


 それは、十年前のあの日。

 僕たちが最後に見た、穏やかな表情の「湊」だった。


『……ありがとう、航平くん』


 声は聞こえなかった。

 だが、唇の動きで、そう言ったのがわかった。


 少女の姿が、朝の光に溶けて消えていく。


 僕たちは、黙ってそれを見送った。

 これから始まる、終わりなき「裁き」と「償い」の日々を予感しながら。


 僕たちが犯した本当の罪。

 それは、湊という一人の人間の「存在そのもの」を、

 デジタルと記憶の海から、

 集団で『消去(デリート)』したことだった。


 初期化された世界で、僕たちの「罪」は、永遠に残り続ける。


 ポケットの中で、スマートフォンが再び震えた。  


 差出人不明のメール。  


 本文には、ただ一行。  


 【 復元完了。 】


 水平線から昇る太陽が、僕たちの犯した罪を、逃れようのない鮮明さで照らし出していた。


(了)

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