第5話 解凍される地獄

 真っ白に発光するスマートフォンの画面が、僕たちの顔を青白く照らし出していた。

 指先一つ触れれば、すべてが始まる。あるいは、すべてが終わる。


 『共有ドライブ:解凍完了。中身を再生しますか?』


 その文字の下に、歪なアイコンが並んでいる。

 画像ファイル、音声メモ、そして……動画ファイル。


「……やめろ」


 大輝が、掠れた声で言った。

「もういいだろ。パスワードは通った。湊も……湊だって、そこまで来てる。もう、終わりにしようぜ」


 大輝の視線の先。

 崖の縁に立つ「湊だったもの」は、動きを止めていた。

 泥にまみれた右手が、ゆっくりと僕たちの方へ差し出される。その掌の上で、くしゃくしゃの一万円札が、風に吹かれてカサカサと乾いた音を立てた。


 それは、まるでもう一度、僕たちに「受け取れ」と言っているかのようだった。


「終わらせるわけにはいかないよ。大輝くん」


 柚月の静かな声が、夜の空気に染み込んでいく。

 彼女は、いつの間にか颯太の隣に立っていた。その白い指が、颯太の持つスマートフォンの画面へ、迷いなく伸びる。


「だって、誰も『一番大切なこと』を思い出していないんだから」


 柚月の指が、動画ファイルの再生ボタンを叩いた。


 沈黙。

 一瞬の静寂のあと、スマートフォンのスピーカーから、激しい風の音と、誰かの荒い息遣いが漏れ聞こえてきた。


 画面に映し出されたのは、ひどく手ブレした映像。

 十年前の、この場所。

 今と同じように、月光だけが頼りの暗い崖の上。


『……もう、限界だよ』


 再生されたのは、湊の声だった。

 今の怪異が発するようなノイズ混じりの音ではない。もっと若く、高く、そして……絶望に震え、泣きじゃくる少年の声。


『みんな、僕がやったって言うんだ。大輝も、美月ちゃんも。航平(僕)まで……。颯太に言われた時、本当に、心臓が止まるかと思った。僕のこと、一番信じてくれてると思ってたのに』


 カメラがゆっくりと回り、湊の自撮りへと切り替わる。

 鼻筋に大輝に殴られたと思われる青あざを作り、涙で顔をぐちゃぐちゃにした湊が、そこにいた。


『一万円。……そんなもの、どうでもよかったんだ。ただ、みんなと笑っていたかっただけなのに。どうして、こんなことになっちゃったんだろう』


 美月が口を押さえ、その場に蹲る。

 大輝は、見たくないものを見るかのように目を剥き、画面を凝視していた。


 映像の中で、湊はポケットから何かを取り出した。

 それは、あの一万円札だった。


『大輝が、僕のカバンに入れるのを見たよ。……知ってたんだ。でも、言えなかった。言ったら、グループが壊れちゃうから。僕が我慢すれば、また明日から、みんなで笑い合えると思ってた』


 僕の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。


 彼は知っていた。

 知っていて、僕たちの「罪」をすべて、その細い肩に背負い込もうとしたのだ。


『でも、ダメだった。……みんなの目。あんな目で、僕のことを見るんだね。まるで汚いゴミを見るような。……僕を殺したいと思ってるような』


 湊の声から、感情が消えていく。


『だから、死ぬ前に「これ」を共有ドライブに上げることにした。僕が死んだあと、誰かがこれを見て、少しでも後悔してくれたら……いや、そんなの嘘だ。後悔なんてしなくていい。忘れないでほしいだけなんだ。僕がここにいたことを。君たちが、僕を殺したことを』


 湊はそこで一度、言葉を切った。

 そして、カメラに向かって、ゾッとするほど穏やかな微笑を浮かべた。


『……バイバイ。みんな』


 映像が大きく揺れ、地面と空が激しく入れ替わる。

 そして、鈍い衝突音。


 再生が止まった。

 画面は再び真っ白に戻り、冷酷な沈黙が僕たちを包囲する。


「……湊」


 颯太が、呻くように名前を呼んだ。

 その時だった。


 崖の上に立つ湊の怪異が、カクン、と首を横に傾けた。

 その動作は、まるで映像の終わりのタイミングを待っていたかのようだった。


 ズザ……、ズザザザッ!


 湊が、猛烈な勢いで僕たちとの距離を詰めてきた。

 足はない。泥にまみれた体を引きずるようにして、しかし確実に、獲物を追い詰める獣のような速度で。


「う、わああああああ!」


 大輝が悲鳴を上げて走り出そうとする。

 だが、その足元に、真っ黒な手が絡みついた。


 地面から。

 否、影の中から。


 無数の、子供のような小さな手が這い出し、大輝の足首を、膝を、腰を、執拗に掴んで離さない。


「助けてくれ! 航平! 颯太! 悪かった、俺が悪かったんだ!」


 大輝の絶叫が、夜の海に虚しく響く。

 僕は動けなかった。

 助けなきゃいけない。そう思っているのに、脳が、体が、拒絶している。

 映像の中の湊の言葉が、呪いのように僕の足を地面に縫い付けていた。


 ――君たちが、僕を殺したことを。


「ねえ、知ってる?」


 柚月が、パニックに陥る僕たちの間を、悠然と歩き始めた。

 彼女は湊の怪異のすぐ隣まで行くと、その泥だらけの頬に、優しく手を添えた。


「この共有ドライブには、もう一つ、隠しフォルダがあるの」


 柚月の言葉に、怪異の動きが止まる。

 大輝を掴んでいた無数の手も、ピタリと動きを止めた。


「湊くんが死んだあと、このドライブにアクセスした人がいる。……パスワードを知っていた誰かが、映像を消そうとした形跡があるのよ」


 全身の血の気が、一気に引いていくのを感じた。


 パスワードは、罪を認めた順の出席番号。

 僕たちは今日、初めてその「正解」を知ったはずだ。

 だとしたら、十年前、湊が死んだ直後にその答えに辿り着き、証拠を隠滅しようとした人間が、この中にいるということか?


 僕は、美月を見た。

 彼女はガタガタと震えながら、自分自身の指を噛み切らんばかりに凝視している。


 僕は、大輝を見た。

 彼は地面に這いつくばったまま、酸素を求めて口をパクパクとさせている。


 そして、僕は、颯太を見た。


 颯太は、スマートフォンを握りしめたまま、微動だにせず柚月を見つめていた。  その顔に、先ほどまでの絶望や後悔の色はない。

 ただ、深い霧のような、読み取れない無機質な表情だけがあった。


「ねえ、颯太くん。……教えてあげてよ」


 柚月が、妖艶ですらある微笑を浮かべる。


「あの日、湊くんが崖から飛び降りるのを、一番近くで見ていたのは誰?」


 風が、止まった。  波の音さえ、聞こえなくなった。


 颯太が、ゆっくりと口を開く。


「……ああ」


 その一言は、あまりにも軽く、あまりにも冷たかった。


「僕だよ。柚月。……君が止めてくれるのを、ずっと後ろで待っていたんだ」


 新しい真実が、

 人の形をした悪意として、牙を剥く。

 共有ドライブが解凍されたことで明らかになったのは、湊の死の真相だけではなかった。


 僕たちが知っているはずの「柚月」という少女の、本当の顔。

 そして、あの日、崖の上に立っていたのが、湊一人ではなかったという事実。


 崖の下から、

 再び「何か」が這い上がってくる音がした。

 今度は、一つではない。


 数え切れないほどの「後悔」が、形を成して、僕たちを飲み込もうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る