エピローグ

 もうひとつの病院で、クリスマスと新年を越してから、僕は退院した。


 ようやく、家に帰ってきた。


 玄関を開ける。君の靴がある。廊下の空気が、病室とは違う温度をしている。

 僕は靴を脱ぐ。その動作が、思ったよりも難しい。でも、僕はちゃんと脱げる。脱げることが、嬉しい。


 リビングに君がいる。振り向いた君が、笑う。


 「おかえり」


 その声が、僕の耳に触れる。画面越しではない声。距離のある声。距離があるから、届く声。


 僕は答える。


 「ただいま」


 その言葉が、僕の口から出る。出た瞬間、僕は僕に戻る。


 天井は白くない。蛍光灯の均された光ではない。窓から差し込む冬の光が、部屋に影を作っている。影があるから、光がわかる。


 僕は君のそばに座る。君の体温が、すぐそこにある。


 君が手を伸ばす。僕の手に、君の手が重なる。

 冷たいね、と君が言う。

 僕は何も言わない。ただ、その手を握り返す。


 病室で何度も考えた。境界がなくなって、全部ひとつになる世界。孤独が消えて、苦しみも消える世界。それは美しく見えた。

 でも——

 今、僕の手には君の手がある。

 君の手は僕の手ではない。僕の手は君の手ではない。

 その違いがあるから、触れることができる。

 その違いがあるから、温度がわかる。


 境界がある。

 だから、二人でいられる。


 僕に残されていた愛の場所。

 僕はそこに、帰ってきた。

 窓の外で、冬の光が傾いていく。

 君の手は、僕の手の上にある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕に残されていた愛の場所 阿部純一 @abejunichi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画