第3話

 僕は15年前にいた。

 病室の白さが、昔の白さを呼び戻す。白い天井。白い光。白い壁。白は、安心の色みたいな顔をしているくせに、僕の中ではずっと恐怖の色だ。


 母がくも膜下出血で倒れた夜。家族の危機が、突然生活を別のモードに切り替えた。あの時も僕は孤独だった。孤独というより、世界の手すりが外れて、どこにも掴まれなくなる感じだった。


 それでも人は社会に戻る。戻らされる。僕も戻った。どうにか自分の居場所を探さなければならなかった。

 小説家になりたい。夢を叶えたい。そういう気持ちで、出版社の雑誌編集のアルバイトをしていた。でも僕は夢を掴んだのではなく、ただ「文章で生きていくことができるかもしれない」という可能性の入口に立っているだけだった。


 仕事のあと、家に帰って、机に向かう。何かを書こうとする。けれど何も書けなかった。

 虚無。

 生きていることには意味があり、書くべきことがある。そういうことが、どうしても分からなかった。分からないのに時間だけが進む。進むのに僕だけが薄い。


 結局僕は仕事を辞めて、実家に帰って、普通の人間として生きた。普通の人間。それは当時の僕には、どこか敗北みたいに聞こえた。

 でも——そんな人生が輝かしいものであることを教えてくれたのが君だった。



 2010年11月。

 僕たちはネット上で実際に会う約束をした。


 彼女はある作家の大ファンで、僕もその作家の熱心な読者だった。ネットのフォーラムで、彼女は心理学を学ぶ学生として書き込みをしていた。僕は名もなき作家志望だった。

 たまたまそういうふうに話せたことが、僕には嬉しかった。言葉が、現実へ降りるための橋になる気がしたからだ。

 彼女は僕のことをおかしな人だと思いながら、会ってくれると言った。


 会う日に向けて、僕は日本食の美味しい店を探した。大阪の宗右衛門町あたりに、いい店があった。街の知識は、雑誌編集者として調べたものだった。年上だからといって、人生経験が立派なわけじゃない。だからその店が見つかったことが、妙に救いだった。自分の過去が、少しだけ役に立つ。


 彼女は、誰にでも愛されるというタイプの美人ではなかった。でも、ひとたび笑顔を見せると、たちまち人を魅了してしまうタイプだった。実際、僕の前で彼女はよく笑った。


 そしてその日、彼女は言った。

 「カフカ少年は、故郷に帰らなかったら良かったと思うんです」


 僕は箸を止めた。彼女が好きな小説の話だった。家出をした少年が、最後には故郷に帰る物語。

 僕は言った。

 「家には帰らないとまずいんじゃないかな。物語として。いつか父や母を理解する。そういう必要があると思うけれど」

 けれど彼女は、僕の説明を待たずに言う。

 「でも彼は家から離れて、その分身は父親を殺し、姉を犯した。それは現実ではなくても。彼の中にはそういう部分があった。彼は自分の人生を生きることもできた」

 頭のいい人だなと思った。そして彼女は本気だった。意見として言っているのではなく、人生として言っている。

 彼女は関東から家を出て、関西にやってきて、そこで僕と出会った。そんな彼女は、いつかは関東に帰りたいと思っている。でも僕と出会ってしまった。僕と関係が続く限り、家には帰れない。

 その事実が、胸の奥に棘みたいに残った。

 僕は思う。

 僕が彼女から奪ったのは、故郷だ。



 僕は記憶の中から病室に戻る。

 思い出の中には、いつまでもいられる。そこでは僕は倒れていない。身体は自由で、言葉も自由だ。でも、僕はそこに住むわけにはいかない。


 僕たちの帰る場所は、まだ立派な家ではない。けれど帰る場所がある。

 彼女との結婚。二人で歩いた異国の街。自分たちの住む小さな家。それが僕たちの帰る場所だ。そこには、出会って15年が過ぎた二人の暮らしがある。


 そして若かった僕には手に入らなかった、かけがえのないものがある。

 この世でいちばん大切な人がいる。


 だから僕は、思い出に沈みきらない。病室の白さにならされきらない。

 君のいる場所へ帰る。



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