第2話

 奇妙な夢をみる。

 この世界が、もう終わってしまった夢だ。


 終わりは爆発じゃない。誰かがスイッチを切るみたいに、静かに、静かに、ならされていく。

 蛍光灯の白さみたいに。痛みも、幸福も、同じ光で拭き取られていく。濃淡が消えて、陰影が消えて、世界は平らになる。立体だったはずの人生が、薄い紙みたいにぺらりと剥がれていく。


 僕はその平らな世界を歩いている。歩いているのに、足音がしない。空気がないわけではないのに、肺の奥が動いている気がしない。誰かの街だったはずの場所に、誰かの生活の匂いがない。


 空に、薄いUIが浮いている。

 四隅に小さな文字。


  SKIP

  AUTO

  RETRY


 画面が世界を覆っている。世界のほうが画面の中に入ってしまったみたいだ。


 人がいる。たくさんいる。でも、顔がぼやけている。目鼻が曖昧で、輪郭だけが歩いている。そして、その頭上にはタグが揺れている。


  〈モブ〉

  〈観客〉

  〈敵〉

  〈味方〉

  〈恋人候補〉

  〈感動要員〉


 誰かの涙が落ちる。涙が落ちた瞬間、字幕が出る。


  〈ここで泣け〉

  〈感動の展開〉

  〈保存しました〉


 保存? 何が?

 僕が見ている景色が、勝手に保存されていく。僕の胸が締めつけられる感覚も、勝手に保存されていく。そうして保存されたものが、次の瞬間には「おすすめ」として再生される。


 どこかで誰かが体験した熱い展開が、僕の眼前に配信される。どこかで誰かが勝利する瞬間が、世界の中心みたいに輝いている。その光の周りを、僕の人生が薄い影みたいに回っている。

 それ以外は、クソゲーなのだ、と。


 背後から気配がする。

 振り返ると、若い頃の自分がいる。二十代のころの僕だ。その目は、何かを見抜いたふうに澄んでいる。でも同時に、どこか空っぽだ。


 若い頃の僕は、胸のポケットから小さなリモコンを出す。リモコンの中央に、赤いボタンがある。


  RESET


 若い頃の僕は何も言わない。ただ、そのボタンを見せている。

 僕の中に、声が響く。押せば楽になる。押せば孤独が消える。境界がなくなって、全部ひとつになる。


 「あなたとわたしの境界はなくなる」

 口が勝手に、その言葉をなぞる。僕の声で、僕じゃないものが喋っている。

 「あなたはわたしでもある」

 僕は自分の舌の感覚を確かめようとする。舌がある。でも、舌が僕のものじゃない。喋っているのに、喋らされている。


 世界はフィクションだ。すべてゲームみたい。すべて映画みたい。

 全部、物語にしてしまえばいい。固有のものなんて、ない。固有のものがあるから苦しい——


 群衆の輪郭が近づいてくる。顔のない人々が、僕の周りを取り囲む。彼らの頭上のタグが、ひとつずつ消えていく。モブも、敵も、味方も、恋人候補も。全部、消えていく。

 タグが消えた場所に、代わりに同じ言葉が浮かぶ。


  〈統合〉

  〈理解〉

  〈幸福〉


 群衆の声がひとつになる。音が溶けて、単一のハミングになる。それは不思議と美しい。孤独がなくなる音だ。


 孤独なんていらないだろ——

 そう言いそうになる。


 でも


 僕は夢の中で立ち止まる。

 立ち止まった瞬間、世界が少しだけ立体に戻る。蛍光灯の白さに、わずかな影ができる。

 そして、その影が教えてくれる。


 大きな存在って何だ。無って何だ。

 そこを考え始めた瞬間、若い頃の思想は急に薄っぺらい宗教みたいな顔になる。言葉だけが残って、手触りがない。美しいことを言っているのに、指先が何も掴めない。

 みんながひとつになって理解する——そんなことはない。理解は、溶けてひとつになることじゃない。境界を消して終わることじゃない。

 孤独は、溶かして終わるものじゃない。


 「この現実にしか救いはない」

 「相手を思いやるところにしか未来はない」

 誰かが言う。その声は、群衆のハミングの奥から聞こえる。でも、それは"正しさ"の声だ。正しすぎて、冷たい。

 孤独な魂には、ぴんとこない。

 病気になって、尊厳がぐちゃぐちゃになって、それでも人生を続けろというのか。


 僕の中から問いが飛び出す。問いは、武器みたいに飛び出す。


 ——あなたは誰だ。


 その問いを投げた瞬間、夢の音が変わる。

 点滴の音みたいな、秒針みたいな音。ビープ音。測定機の、あの無情な音。

 夢の中の世界が、病室の機械に上書きされていく。群衆のハミングが、機械のビープに変わる。顔のない人々が、看護師の足音に変わる。UIの「RETRY」が、モニターの数字に変わる。


 そこで目が覚める。

 天井が白い。白すぎて、怖い。世界はまだ"起動中"だった。


 僕は反射で、iPhoneを探す。指が震える。画面が点く。通知の一覧が、白い光の中で浮かぶ。

 そこで、君って誰だ? となる。思い当たるのはひとりしかいない。


 名前を見て、息が戻る。

 君を忘れたくない。忘れたくないのだ。


 通話ボタンを押す。呼び出し音が鳴る。鳴っているあいだ、僕はただ祈る。この世界が、まだ君につながっていることを。


 三回目のコールで、君が出る。

 「どうしたの」

 寝起きの声だ。少しかすれている。

 僕は何も言えない。ただ、君の声を聞いている。

 「……大丈夫?」

 大丈夫じゃない。でも、君の声が聞こえる。それだけで、僕は現実の側に引き戻される。

 僕が生きている理由なんて、君しかないのだ——そう言おうとして、やめる。

 言わなくても、君は知っている。



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