僕に残されていた愛の場所
阿部純一
第1話
天井が白い。
それが最初に掴めた世界だった。
白すぎて、逆に怖い。蛍光灯の光は世界をならしてしまう。痛みも、幸福も、同じ明るさで。
僕はそれを見上げながら考える。
僕とは、いったい誰だろう。
君のことはわかるのに、僕がわからない。
帰れる場所だけが先にあって、帰るはずの主体が抜け落ちている。家という座標だけが点滅していて、「僕」という点が表示されない。
思い出そうとする。
病院に来る前、僕はどこにいた?
結婚して、ささやかな生活を持っていた。世界の片隅で、目立たないように、でも確かに暮らしていたはずだ。
凶悪な犯罪者ではない。そのかわり、世界史に名前が残る英雄でもない。僕が倒れても、世界は止まらない。ニュースは流れ、朝は始まり、誰かの仕事は続いていく。
僕の不在は、世界には小さすぎる。
けれど君には——君の生活には、きっと小さくない。
だから僕は、思い出さなければならない。
僕が誰で、何を守ろうとして、どこへ帰ろうとしていたのかを。
*
最初に僕が掴めた世界は、iPhoneの画面とMacの画面、そしてベッドから切り取られた風景だけだった。
画面の中では君と話すことができる。
君は普段は働いている。
でも、君って誰だ。
君は、僕が出会い、恋に落ち、妻になった人だ。僕にとって特別で、そして今は夢を叶えて働いている。出会った頃の君は心理学を学ぶ大学院生で、「本当に人を救えるのか」と迷っていた。それでも君は、ちゃんとその場所に立った。
僕の意識は、ゲームの場面みたいだった。
ここで彼女との思い出に入りますか?
はい/いいえ
そんなふうに尋ねられている気分になる。
僕は一度、そこで「いいえ」を選ぶ。
思い出に入った瞬間、戻れなくなる気がした。記憶は救いになるのに、同時に、刃にもなる。
僕はまだ、入り口の前にいる。
扉の向こうに君がいることだけは、わかっているのに。
*
朝の6時、部屋が勝手に明るくなる。8時、朝食が運ばれてくる。トレーの音がして、金属が擦れる。12時、昼食。18時、夕食。時間は味じゃなくて、配膳で測られる。
その合間に、リハビリが3回ある。脚を動かす。舌を動かす。指先を動かす。動かしているはずなのに、どこか他人の身体を借りている気分になる。身体は僕のものなのに、僕のものじゃない。
それ以外は、ベッドの上だ。日にちの感覚は壊れている。12月2日に倒れたことだけは分かっている。でも今日がいつかは、分からない。わかってもすぐにわからなくなる。あるのは、点滴の音と、蛍光灯の白さと、充電の残量だけだ。
ベッドの上には、iPhoneとMacがある。この二つのバッテリーが切れたら、世界が少し狭くなる。君の声も、君の顔も、遠くなる。
君はApple Watchをつけている。僕からの着信を、いつでも拾えるようにしてくれている。僕が呼べば、君は聞こえる場所にいる。
それだけで、僕はまだ人間の側にいられる。
君の存在は、休日にやってくるお見舞いの時間と、FaceTimeの画面の中と、日々のメッセージに散らばっている。僕はその断片を、落とさないように握りしめている。
*
夜は、悪夢の時間だ。
病室は暗くなるはずなのに、暗くならない。機械の表示が点滅して、廊下の光がドアの隙間から漏れて、世界はずっと"起動中"のままだ。
眠ったのか、落ちただけなのか、わからない。どこからが本当で、どこからが幻なのか、境目が剥がれていく。
点滴の音が、秒針みたいに聞こえる。ビープ音が、心臓の代わりみたいに聞こえる。僕の身体はここにあるのに、僕の身体の"管理画面"がどこか別の場所にある気がする。
下半身の感覚がおかしい。脳神経はちゃんと全身と繋がっているのだろうか。どこかで線が抜けて、信号だけが迷子になっていないだろうか。
その不安が膨らむと、世界がゲームみたいに見えてくる。僕はベッドの上で、コントローラーも持たずに、自分のキャラクターを動かそうとしている。脚を動かす。舌を動かす。指先を動かす。入力はしているのに、反応が遅い。反応しない。勝手に別の動きをする。
病室のこの"管理された世界"の中にいると、奇妙な未来が見えてしまう。
僕は今、身体の管理をされている。スケジュールがあり、配膳があり、リハビリがあり、バッテリー残量があり、通知がある。ここでは、痛みも幸福も、同じ明るさで均される。
人とコミュニケーションをとることが難しくなり、画面の中の文字だけで生きていく未来。僕はアナログな肉体を失い、デジタルな存在になってしまうんじゃないか。
そのとき、怖かったのは"死"じゃない。
僕が僕であるための手触りが、静かに消えていくことだ。
僕はまるで、ドット絵のSFの中で三次元を夢見たRPGの主人公みたいだった。世界がおかしい。それでも、君の通知だけが、現実の側から僕を引っ張ってくれる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます