僕に残されていた愛の場所

阿部純一

第1話

 天井が白い。

 それが最初に掴めた世界だった。

 白すぎて、逆に怖い。蛍光灯の光は世界をならしてしまう。痛みも、幸福も、同じ明るさで。

 僕はそれを見上げながら考える。

 僕とは、いったい誰だろう。


 君のことはわかるのに、僕がわからない。

 帰れる場所だけが先にあって、帰るはずの主体が抜け落ちている。家という座標だけが点滅していて、「僕」という点が表示されない。


 思い出そうとする。

 病院に来る前、僕はどこにいた?

 結婚して、ささやかな生活を持っていた。世界の片隅で、目立たないように、でも確かに暮らしていたはずだ。

 凶悪な犯罪者ではない。そのかわり、世界史に名前が残る英雄でもない。僕が倒れても、世界は止まらない。ニュースは流れ、朝は始まり、誰かの仕事は続いていく。

 僕の不在は、世界には小さすぎる。

 けれど君には——君の生活には、きっと小さくない。


 だから僕は、思い出さなければならない。

 僕が誰で、何を守ろうとして、どこへ帰ろうとしていたのかを。



 最初に僕が掴めた世界は、iPhoneの画面とMacの画面、そしてベッドから切り取られた風景だけだった。

 画面の中では君と話すことができる。

 君は普段は働いている。

 でも、君って誰だ。


 君は、僕が出会い、恋に落ち、妻になった人だ。僕にとって特別で、そして今は夢を叶えて働いている。出会った頃の君は心理学を学ぶ大学院生で、「本当に人を救えるのか」と迷っていた。それでも君は、ちゃんとその場所に立った。


 僕の意識は、ゲームの場面みたいだった。


  ここで彼女との思い出に入りますか?

   はい/いいえ


 そんなふうに尋ねられている気分になる。

 僕は一度、そこで「いいえ」を選ぶ。

 思い出に入った瞬間、戻れなくなる気がした。記憶は救いになるのに、同時に、刃にもなる。

 僕はまだ、入り口の前にいる。

 扉の向こうに君がいることだけは、わかっているのに。



 朝の6時、部屋が勝手に明るくなる。8時、朝食が運ばれてくる。トレーの音がして、金属が擦れる。12時、昼食。18時、夕食。時間は味じゃなくて、配膳で測られる。

 その合間に、リハビリが3回ある。脚を動かす。舌を動かす。指先を動かす。動かしているはずなのに、どこか他人の身体を借りている気分になる。身体は僕のものなのに、僕のものじゃない。

 それ以外は、ベッドの上だ。日にちの感覚は壊れている。12月2日に倒れたことだけは分かっている。でも今日がいつかは、分からない。わかってもすぐにわからなくなる。あるのは、点滴の音と、蛍光灯の白さと、充電の残量だけだ。


 ベッドの上には、iPhoneとMacがある。この二つのバッテリーが切れたら、世界が少し狭くなる。君の声も、君の顔も、遠くなる。

 君はApple Watchをつけている。僕からの着信を、いつでも拾えるようにしてくれている。僕が呼べば、君は聞こえる場所にいる。

 それだけで、僕はまだ人間の側にいられる。


 君の存在は、休日にやってくるお見舞いの時間と、FaceTimeの画面の中と、日々のメッセージに散らばっている。僕はその断片を、落とさないように握りしめている。



 夜は、悪夢の時間だ。

 病室は暗くなるはずなのに、暗くならない。機械の表示が点滅して、廊下の光がドアの隙間から漏れて、世界はずっと"起動中"のままだ。

 眠ったのか、落ちただけなのか、わからない。どこからが本当で、どこからが幻なのか、境目が剥がれていく。


 点滴の音が、秒針みたいに聞こえる。ビープ音が、心臓の代わりみたいに聞こえる。僕の身体はここにあるのに、僕の身体の"管理画面"がどこか別の場所にある気がする。

 下半身の感覚がおかしい。脳神経はちゃんと全身と繋がっているのだろうか。どこかで線が抜けて、信号だけが迷子になっていないだろうか。


 その不安が膨らむと、世界がゲームみたいに見えてくる。僕はベッドの上で、コントローラーも持たずに、自分のキャラクターを動かそうとしている。脚を動かす。舌を動かす。指先を動かす。入力はしているのに、反応が遅い。反応しない。勝手に別の動きをする。


 病室のこの"管理された世界"の中にいると、奇妙な未来が見えてしまう。

 僕は今、身体の管理をされている。スケジュールがあり、配膳があり、リハビリがあり、バッテリー残量があり、通知がある。ここでは、痛みも幸福も、同じ明るさで均される。

 人とコミュニケーションをとることが難しくなり、画面の中の文字だけで生きていく未来。僕はアナログな肉体を失い、デジタルな存在になってしまうんじゃないか。


 そのとき、怖かったのは"死"じゃない。

 僕が僕であるための手触りが、静かに消えていくことだ。


 僕はまるで、ドット絵のSFの中で三次元を夢見たRPGの主人公みたいだった。世界がおかしい。それでも、君の通知だけが、現実の側から僕を引っ張ってくれる。

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