第4話

 ドッペルゲンガー症候群の唯一の治療法は、自分のドッペルゲンガーを見つけ、認めさせることだ。

 それは口下手な私にとってハードルの高すぎる難題であった。

 桜の薄紅はいつの間にか静かに息をひそめ、緑の葉が色めきだし、木漏れ日が風に吹かれて揺れている。

 私は言い出せなかった。

 自分のドッペルゲンガーが誰かなんて知っているのに。

 彼は毎日幸せそうに笑うから、私じゃなく彼が生きていけばいいのになんて、先生の本体みたいなことを本気で考えだしていた。そうだ、わかる。私は彼の心がわかるのだ。

 自分より生きるのが上手な人に、自分の人生を押し付けたい。そんな感情をこの病の人が抱かないわけがない。それが原因でこんなことになっているのだから。

 私は彼を見ていた。見えなくなった片目で、彼の笑う姿をずっと見ていた。

「なぁーに? なんで俺のこと、そんなに見てんの?」

 彼は優しいのだ。太陽のように笑って、陽だまりのようにぬくもりをばらまく。

「鬼ごっこしない?」

 唐突だった。

 けれど、私が腹を決めた一言だった。

「えっ? なんで?」

 困惑する表情が困っているのに、笑っている。私が人に向けられない感情だ。羨望が、好奇心が、焼けただれるような嫉妬が彼といると渦を巻いている。

 私はそっと彼に耳打ちをする。

「羽月くんが勝ったら、私の人生をあげる」

 彼は一瞬にして頬を赤くする。

 その瞬間、私の言葉足らずがあらぬ誤解を生んだことを理解した。

 クラスで冷やかすような声が上がる。けれど、もうこうなったら引くことはできない。唇が青くなる。緊張でひざが笑う。でも、そんなことはどうでもいい、正当な方法で私は私の人生を彼から奪い取る。

 羽月くんはいちいち気づいてくれて、こんな私にやさしくしてくれる。きっとこんな私が生きていくより、彼が生きた方がいい。そんなことはわかっている。

 けれど、これは私の人生だ。

「わかった。だから、ちょっとここから出ようか」

 そういって教室から退散する。静かに高鳴る鼓動は先生と向き合った時とは違う。自分の命のかかった恐怖の高鳴り。

「……そんな青い顔して。なんでそんなこというの?」

 私を支えながら,羽月くんは笑わずに言う。

「羽月くん。ずっと聞きたかったことがあるの」

 青ざめた唇が覚悟を決めて動き出す。

「あなた、私のドッペルゲンガーでしょう?」

 その刹那、彼は電池の抜かれた人形になった。まるで映像を停止したみたい。不自然に止まったまま、急に電源が入る。

「えっ? なんだって」

 視界が白濁する、景色がくすみだす。頭が重くなってめまいを起こし、思わず壁(かべ)に縋りつく。けれど、私は食らいつくように答える。

「羽月くん。あなた、出身中学いえる?」

「三ヶ山中学だけど……」

 羽月くんは迷いなく答える。けれど私も引かなかった。

「私も三ヶ山中学だよ。でもあなたはいなかった。……おかしいよね、あの中学校は田舎の中学で一学年一クラスしかないのに、私はあなたのこと知らないの」

 だんだんと意識が遠のいていく。

 けれど、ここで飲まれてはだめだ。死にたくないなんて、一生いうことのない言葉だと思っていた。他の誰でもない、誰にも愛されない、誰にも必要とされない、そんな私のエゴしかない生への執着。

 みっともない、情けない、バカらしい。そんな感情ばかりが浮かんでは私を殺そうとする。けれど、だけど、死にたくないのだ。

 死んだら、先生に会えないから死にたくない。

「もう一回聞く。あなたは、私のドッペルゲンガーでしょう?」

 羽月くんは黙ったまま走って逃げた。

「待って! 逃げないで」

 私は彼を追いかけた。運動神経がいいわけではないが、足だけが速い私は彼のスピードに食らいつく。

 死んでたまるか。死んでたまるか。何度も、何度だって心の中で叫んだ。

 何もかも諦めてきたの。何もできない、友達も家族も、誰かに愛されることも全部、全部諦めてきた。

 だから一つぐらい諦めたくない。

 羽月くんが階段を降りようとしたとき、私は手すりから飛び降りて彼の前に落ちた。

「待って! 逃げるな!」

 こんな大きな声、私にも出るんだって驚いた。

「ごめん! 私、死にたくないの! 死にたくない! もし、世界中の人が私のこと嫌いでも、誰にも愛されなくても、誰にも笑いかけてもらえなくても! 私の人生だもん! 死ねないよ!」

 叫んで、泣き叫んでいた。

 こんなのはエゴだ、わがままだ、けれど生きる理由にするのなら、十分すぎる感情だ。足は痛いし、強く打った腰が痛くて、もう走れない。けれど、私は彼を逃がすつもりは毛頭なかったのだ。

「俺は堂本の影なのか?」

 羽月くんは呆然と呟いた。呟いて、涙を浮かべた。

「そうだよ。だって……」

 言葉にしようとして羽月くんは叫ぶ。

「俺にだって生きる権利ぐらいあるだろ! 今まで楽しい人生を生きてきたんだ! 誰かを傷つけることなんかしてない! 誰も悲しませるようなことしてない! それなのに、なんで俺が消えないといけない。……でもそうだ。わかってる。全部嘘なんだって。……何もかも、全部、お前から生まれた願望だって。でも信じたくないんだ。……だって俺、みんなのこと好きだよ。楽しいよ、幸せだよ。お前だってそれを望んでたんじゃないのか。俺だってこれからの人生があるのに、なんで奪うんだよ!」

 彼の言い分はもっともだ。彼は私の勝手で生まれて、意志もあって、感情もあって、誰かを傷つけるようなことだって一切していない。

 彼は愛されるべき人間で、本人でさえそれを疑いようもないほど、品行方正に生きている。命は平等にあるのと同じ。誰だって死ぬのは怖い。

「ごめんなさい、私には価値がない。だからあなたができた。価値のある元気で明るくて愛されるべき人間、私は本当にあなたになりたかった」

 泣きじゃくって彼は私を見る。

「でも違うね。羽月くん、私はあなた。あなたは私。だってこんなにもあなたは私を嫉妬させる。忠実に私のなりたい理想でいてくれる。だから私は私が嫌いで、あなたが好きなの。あなたを嫌いになんてなれない。ずっとあなたになりたかった。ずっと、私なんて死んじゃえばよかったって思ってた。でも、……私ね、好きな人できたの。思いが通じてこんなに幸せ。もう二度と手に入らないって思うぐらい、今幸せなの。最低でもいい。嫌われてもいい。でもだから、だから帰ってきて、私のもとへ」

 私は泣いた。泣いて羽月くんの手をしっかりと握った。

「堂本。俺、消えるんじゃないんだな。死ぬんじゃないんだな。お前のところに帰るだけなんだな」

「うん……、そうだよ」

 私は震えが止まらず泣いた。正しいことかなんてわからない、わからないから震えが止まらなかった。

「お前バカだな……。笑ったほうがよほど嬉しいのに、泣くなよ。バカ……」

「……うん」

 光の粉が風に吹かれる。体が解けるように光の粒になる。羽月幸之助は消えていく。私の理想がなくなってしまう。私はギュッと手を握った。握って、震えながら泣いて笑った。

「また、泣いたら化けて出てやるからな!」

握った彼の手は微かに震えているのに、私はそれをごまかすために血が止まってしまうくらいきつくきつく握り締めた。

 それは弱さだろう? 私と羽月くんの、弱さだろう? 私は何も変わっていない。この寂しさや苦しさから、何一つ救われてなんかいない。

 でも忘れない。忘れるもんか。救われようのない寂しさに向き合うことを。誰かと出会うことの喜びを。私は先生のために強くなりたいと願った。

 恋焦がれるという言葉を知っていても、気持ちで味わうことなんて一生ないのだと思っていた。抱きしめたくなるほど誰かに執着することはないのだと思っていた。

「好き」だとか一番薄っぺらな言葉だと嫌悪していたけど、感覚でわかる。この言葉は、人によって色を変えるアレキサンドライト。

 私は保健室へ向かう。ふらつく足を懸命に動かして、先生の悲しそうに笑う顔ばかり、思い浮かべて、縋り求めるように足を止めない。

 保健室の扉を開ける。

 振り返った先生の眼は私と同じ恋焦がれる色をしている。

「ねぇ先生、キスしてよ」

先生に私は言う。恥ずかしげもなく、ただ餓死してしまうほどに飢えた心の欲望を抱えて。

「いいよ」

 合わせた唇は、冷たくて心地いい。

 先生と私。消え入って混じって一つになればいい。全てが欲しいと思うほどに求めても足りない。私の欲望を煮えたぎらせるこの人は、私の……好きな人。

「見つけてくれてありがとう。花、好きだよ」

 吐息をはくような小さな声で先生は告げる。私はまた不器用に笑うことしかできない。先生が嘘でもよかった、私が嘘でもよかった。明日がくればよかった。未来があればよかった。望むほど欲は深くなるばかりで、そうやって嘘も本当も瞳の中に隠して、今日という日が過ぎ去っていく。

 生きてるの、みっともないほど懸命にもがいて苦しんで、偽物も本物も、そんなことはどうだっていいほどに溺れて。

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心象アレキサンドライト 雨宮汐 @lyrics-ia

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