第2話
先生と私が初めて出会ったのは、入学式だった。
初日に風邪をひき、足取りもおぼつかないで行った入学式で倒れ、運び込まれた保健室に先生はいた。
黒縁眼鏡の奥の、意識が覚めるような、強烈な青の瞳。
一瞬、幻覚見ているのかと疑うほどに、それは陰気な彼とは不釣り合いな目だった。真っ黒な髪と黒縁眼鏡、おびえるように微笑むその様子を見て、なんとなく私と彼は同類なのだと悟る。
頬が熱を帯び、震える体から力が抜けた気がした。
「熱があるね。ベッドで横になって」
愁いを帯びるその表情を見るたび、その眼鏡の奥の瞳のことばかり気になった。美しい青い瞳があまりにもその黒髪に不釣り合いで、整った容姿なのにどこか自信なさげな、しぐさと線の細い体が脆く見えた。だからこそ不釣り合いで美しかった。
「大丈夫。先生はここにいるからゆっくり眠りなさい」
そっと額にあてられる氷嚢の冷たさが心地よく、まどろみに飲まれそうだ。けれど湧き上がる、不安と寂しさと熱で意識を手放すことができない。
視線で体温計を探して動く先生を追っていた。
先生はそんな私の心細さをいちいち感じ取り、微笑んでは近くにいてくれる。そんな優しさから、私には彼が神様に見えた。
黒縁メガネは根暗に見えて陰気な容姿に拍車をかける。加えて低すぎる地響きみたいな陰気な声、空のような青い目。熱に浮かされながら見つめる先生の目はさながらパライバトルマリンだ。独特で希少な青みを放ち、夜に見かける獣の目のように輝いていた。
まるで夜の鴉みたい。真っ黒なのに目だけとてもきれい。
「せんせ、目がとっても綺麗。ハーフなんですか?」
息も絶え絶えに先生に聞くと、彼は暗くどこか毒のある笑みを浮かべてこういった。
「俺はクォーター、祖母が外国人なんだ。……君こそ目の色が綺麗な緑色をしてるな。ハーフなの?」
「いえ、私は。……目の色素が薄いだけなんです。光に弱くて……。だからメガネをしてるんです」
私がベットの上で話すのも辛そうにしていると、先生が私の目に手を当て眠るように促した。
「そう、じゃあもう寝なさい。僕らの目は光に弱いんだから」
私は目に当てられた手にドキドキしていた。冷たい先生の手、低すぎて消えてしまいそうなほど優しく発せられた言葉。
その優しさが、心の傷に痛みを走らせる。
「……ご、ごめんなさ」
涙があふれる。鼻がつまっていて、もはや何を言っているか分からない私の言葉を、先生は拾い上げてくれる。
「謝らなくていい。泣いていいよ」
そういう先生は決してこちらを見なかった。ただティッシュの箱を私のそばにおいて、振り返ることなく、静かに言う。
「大丈夫。きっと、大丈夫だから」
その言葉は私の脆い涙腺を刺激するには十分だった。
「うっ、ごめんなさっ」
後ろ向きで、コミュニケーションが苦手。謝ることしかできないのを呆れられてしまっただろうか。それでも先生は、こちらを決してみることのなく、低い声で「大丈夫」と何度も口にする。
優しさは目に沁みる。否応なしに涙を出させる。
ずっと一人ぼっちで邪魔ものだったから、私は優しさなんかに慣れていなかったのだ。
人と関わるのが極度に下手で、今までそこに居るだけのマネキン状態。そんな私だから入学式はきちんと出たかったのだ。せめて名前を覚えてほしかった。後は空気に混じって消えたっていい。名前だけは記憶に残りたかった。
あとでどうして後ろを向いたのか先生に聞くと、泣くのを見られるのほど悔しいものはないからだと言った。
何も聞かなければ、それは冷たく突き放した行動に見えるのに、先生は陰気なくせに優しい。私はどこか距離があるからこそ傾けられる疎外のような優しさしか知らなかった。彼のような気を配り、傷つかないように守るような優しさを、私は知らなかった。
今まで私は人との関わりの中で、優しさとは複数人で集まって、お互いがお互いを守り、守ってもらうために向ける感情の一つだと思っていた。
そこに他意はなく、厚意も嫌悪もないと思っていた。でも先生は違う。
きっと先生は本当の優しさを持っている。私はどちらもないから傷ついて、先生も自分の優しさを認められないから不器用なんだと思った。
ずる賢く生きる事が嫌なら、自分を正当化して生きればいいのに。自分が全て間違っている気がしてたまらない。間違いながら衝突してばかりで生きていく。
そんな不安定さの中で、誰かの大丈夫という言葉が欲しかった。その言葉を先生は何度だってくれた。欲しかった言葉を当たり前のように何度も。彼の、目がくらむほどの優しさは、 狂ってしまうほどの熱量をもって恋い慕わせる。
惚れやすいといわれてしまえば、それまでかもしれない。私は先生が好きになっていた。たったこれだけのことで、好きの許容量があふれてたまらなくなっていた。
けれど、私に好かれて何になるのか。そもそも生徒と先生なんて、倫理にも反する。言葉になんかできない。同世代と訳が違う。だから私は先生を好きだなんて言えなかった。きっと死ぬまでこの気持ちを隠すつもりだった。
始業式が終わり、数日たって入った教室は居心地の悪いものだった。すでに仲のいいグループが出来上がりつつあって、臆病な私は震えながらうつむくことしかできない。
口を開けて必死に言葉を話して「私も仲間に入れて」なんて。
言えたらいいのに、なんて返答を返されるのか。こんな言葉足らずじゃ、いじめに発展してしまうんじゃないか。そのことばかりが脳裏をよぎり、顔を上げることもできなかった。
私は中学生の時に、いじめにあった。私の緑色の眼が怖いのだと、人から距離をとられ始めたのだ。当時、流行っていたパニックホラー映画の「グリーンアイズモンスター」
それがきっかけだったと思う。緑の眼をした宇宙人、というよりもクリーチャーが人間に擬態し、人を襲っていくよくあるパニックホラーもの。クラスメイトは私を標的にし、「宇宙人」「モンスター」「人の皮をかぶってないで襲い掛かってみろ」とからかってきたのだ。
内気な私は余計に臆病になり、その反応も思春期の子供心をくすぐったのだろう。いじめは陰湿なものに変わっていった。
その記憶がよみがえった瞬間、私は思い立ったように教室を出た。
視界がぼやけて何も見えなかった。
「こんな、こんな目なんか……」
私も普通の眼がよかった。黒でも茶色でもいい。普通の人の色。
「花ちゃん、きれいな目だよね」
そういって羨ましがるのは幼い頃だけ。大人に近づけば、だんだんと距離をとられて離れられる。この目が異質だから。この目が緑だから。私は化け物じゃない。同じ人間なのに、少し何かが違うだけで異端だと弾き飛ばされる。「緑の眼の化け物」だと。
うつむいて小走りで走っていると誰かにぶつかった。
「ご、ごめんなさい」
顔をあげると保険医の先生だった。
先生は私が泣いていることに気づくと、優しく肩に手を置いた。
「どうした?」
低い声なのに誰も傷つけられないような臆病な優しいトーン。その声も肩に置かれた手も少し震えている。
「せんせ……」
言葉にした瞬間、涙があふれて止まらなくなった。
「保健室においで。あったかい紅茶を入れてあげよう」
先生はそういうと、ゆっくりと私の手を引いて歩き出した。小さい子を先導するような先生の様子に、自分の子供っぽさが浮き彫りになって恥ずかしく、さらにうつむく。
けれど、手から伝わる冷たい温度が心地よかった。
「ここ、座って」
「あ、あの」
何か言わなくちゃと思うのに、言葉がうまく出てこない。先生は振り返らず、突き放すこともしないで優しく言う。
「君はもしかして、人と関わるの苦手なんじゃない? 俺も一緒」
苦笑いを浮かべる先生の表情がなぜだか、ひどく痛かった。優しい人は損をするっていうけど、きっとこの人はその典型例なんだろう。
優しいから、優しすぎるから。先生は痛みばかりの人生を歩いている。
「先生は……寂しくないの?」
気が付いたらさっきとは違う涙を浮かべていた。憐憫(れんびん)で泣くなんてひどいことかもしれない。何も知りもしないのに勝手に憐れんで、泣くなんてこんなにひどいことないだろう。
私は唇を必死に噛んで涙をこらえた。
「ねぇ、君の名前はなんていうの?」
私は涙をぬぐいながら、名前を告げる。
「堂本 花」
「じゃ、堂本さん。僕のために泣かないで」
先生は真剣な表情を浮かべて私の手を握る。
「僕はね。親友を死なせてしまっているんだ。とても大事な半身とも呼べる優しい奴を。君は優しいから、小さなことでも気づいてしまう子だね。それで僕の心をいつも気遣ってくれる。でも、そんなことで心を痛めないでいい。僕は望んでこうなっているんだ」
うつむいて祈るように目を閉じる先生が、懺悔をしているのがわかった。私にじゃない、きっとその親友に。
「先生が優しいのは、先生が優しいからでしょ?」
気が付いたら言葉にしていた。
「先生はいつもこんなに怖がって、おびえてるのに。それなのに人に優しくするのはすごく勇気のいることだよ。だって私にはできない、できないから。先生のために泣かないでいることも……できない」
言葉にして気づく。
ああ、無理だ。この人が欲しいと思うことを我慢するなんて無理だ。
「先生、私が先生を大事に思っちゃだめですか? 先生がこんなに怯えなくていいように、そばにいちゃだめですか? 先生、私は」
好きです。そういおうとした瞬間、先生の大きな手で口を塞がれた。
先生は体を震わせてうつむいていた。
「僕を見ないで」
そういわれた時、心臓をわしづかみされた。
「先生も、……この眼が、嫌いなんですか?」
「ううん。君の眼がきれいすぎて……。見られると耐えられなくなる」
「なに……に?」
先生は顔を隠していたが、耳を真っ赤にして黙り込んでしまった。
「あ、あの……」
先生の赤面症がうつったように、私も言いよどんで顔を赤くした。
「紅茶、いれるから。……待ってて」
先生は立ち上がって湯沸かしポットのスイッチを入れた。
私は先生の手のぬくもりを確かめるように唇に触れて、うつむいたまま黙っていた。
それから数日たっても、私はクラスになじめずにいた。桜は散りはじめ、葉桜に代わろうとしているのに、私は相変わらず保健室に逃げる日々を送っている。
怖いのだ。神経は過敏さを増すばかりで、うろたえ喉がつかえて声が出ない。手汗がにじみ、目は潤んで涙が出そうな日々を送る。
そんな日々でも、先生との時間だけが唯一の救いだった。
「先生、私ね。家族仲悪いんですよ。私の目の色のことで両親がもめて離婚してから、母が私を引き取ったんです。でも母は私を恨んでいるし、私は学校でも上手くいかないし。だから、毎日想像するんです。明るくて元気で男の子みたいに走り回る私を」
先生はコーヒーに口をつけながら言う。
「想像に食べられないようにね」
「それってテレビでよくやってる奇病の」
口にしてから先生の周りの空気が変わった気がして、思わず口を手でふさいだ。
「僕の親友は、明るくて元気な子でね。誰にでも好かれて、嫌いな奴なんていない。そんな奴だった。けれど、そんな奴でさえこの病にかかった。結局、心の闇なんて誰しもが平等に抱えて、誰もが終わりを求めたがっている。結末を迎えられたのなら、幸せが固定されて揺るがないなんて信じてね」
私は先生の言いたいことがわからなかった。
「結末? それって死ぬってこと?」
先生は苦く笑うだけ。言葉にしようとしない。
水滴がシンクの上で砕ける音がする。保健室は静寂を演じている。その裏でどれほどの激情が動いていても、静寂だけがこの空間には広がっている。
「先生が自分の話をしてくれたの、初めてだね」
「そうかな……」
「うん、先生にとって親友さんの結末は悲しかったんだね」
そういった瞬間、先生の青い目が揺らぐ。潤んで目頭を押さえるように俯く。
「悲しかったんだろうね。今、気づいた」
私は先生に近づいてそっと白衣をつかむ。
「寂しくないよ。私がいる。先生と私は似てる。まるで、同じ人間みたいに」
口にしたらたまらなくなった。
「先生、あのね。私、一人は嫌だよ」
頬を染めながら、白衣をつかんで本心を告げた。
瞬間にチャイムが鳴り響く。うつむいたまま予鈴の音にそっと白衣を離す。先生は一瞬すがるような視線を向けて、我に返りまた俯いた。
「また、きます」
教室に戻る足取りは惜しむように重たかった。
教室に戻ると誰もいない。そうか、移動教室だったのだと気づいた。そっと自分の机に触れてみる。いじめられてない、腫れ物に触れるような扱いではあるけど、このクラスメイトは優しいんだろうって思った。
「あ、いたいた。堂本! 次、理科室だぞ!」
急に後ろから声をかけられて我に返る。短髪の日焼けした肌の長身のクラスメイトが立っていた。一瞬で凍り付く。
「あ、あの、えっと、」
言いよどんで必死に彼の名前を思い出そうとするも、どうにも思い当たらない。ただ彼はクラスの中心人物で、みんなから好かれてて、そうだ。私、憧れてたんだこの人に。
「あ、そっか! 俺さ、羽月幸之助っていうんだ。よろしくな」
私は戸惑いながら、かすれた声で自分の名前を言った。
「私、堂本花」
喉が詰まって上手く声が出せなかった。ちゃんと聞こえたかな。ちゃんと伝わっただろうか。不安になってそっと彼の表情に目を向けると、彼は満面の笑みで笑っていた。
「全然、話せなかったから。声聞けてうれしい! ありがとうな」
そういわれた瞬間、涙が出た。
「えっ、ちょ、ど、どうした? 嫌なこと言っちゃったか? うわぁ、ごめん!」
彼は慌てて謝ろうと頭を下げる、けれど、違うの。違うんだよ。
怖くて胸を抑える手をそっと離して、涙をぬぐう。
「ち、違うの。うれしいの。私、ずっと本当は話しかけたかったし、話しかけてほしかった」
何度も首を横に振って「ありがとう」というと彼は私の眼鏡をそっと外し、ティッシュで私の涙を拭いてくれた。
「泣かないでくれな。大丈夫だから。落ち着くまで話そうか。それで、友達になろう」
羽月はとてもやさしかった。
内気な私の声を懸命に拾って、話を聞いてくれた。
「知ってる? グリーンアイズモンスターって嫉妬って意味だって」
「嫉妬?」
「そう、あんまりにもきれいな眼だから、嫉妬を抱く人が多かったから、外国では嫉妬を意味するんだって。堂本の目も、嫉妬されたんだよ。だってお前の目、めっちゃくちゃきれいだもん」
その瞬間、彼は臆病な自分と違って優しさを自然に誰にでも向けられるのだと悟った。ねぇ、先生。この子は先生とも違う。私とも違う。私が喉から手が出るほど、欲しいものを持っていて、とても眩しい。そんなふうに思った彼は、落ち着いた私を理科室まで連れて行ってくれた。
そして休み時間に彼の友人たちに紹介してくれた。みんな優しくて涙が出そうだった。仲間に入れてってようやく言えた。
私に友達ができた。
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