心象アレキサンドライト

雨宮汐

第1話

 誰にも見られることのないテレビの独り言。

 耳障りなその声より、保健室の先生の目にとまりたくて、私はそっとテーブルの脇に置いてあるリモコンに手を伸ばした。

 少し届かなくて体まで乗り出すと、置いてあったコーヒーの香りが鼻腔を刺激した。

 淹れたてのコーヒーの苦いような、香ばしいような匂いがして、思わず顔をしかめる。コーヒーは、大人が飲むイメージ。年を重ねれば重ねるほど、強く苦い匂いがする。

 埋められない年月の匂いなのだと痛感する。

 だから、私はコーヒーが嫌い。リモコンを手にすると、私は先生の後ろからテレビを消した。

「見てたのに」

 残念そうに、それでいて私の行動など全部知っていましたと言わんばかりに、ため息をつき、向き直ると机に肘をついたまま言った。

「それで?」

 先生は私の言葉を待っている。それだけでただれるような焦燥感と喜びに満ちて、私の正気を奪っていく。

「先生は、私が好きですか?」

 振り返る表情はいつも困っていた。それを見るのが、とても嫌い。先生の困った顔、困らせてしまう私が、私の嫌いなもの。

 先生は眉をひそめて、私の頭を優しくなぜる。傷つけることを恐れるように、まるで華奢なガラス細工を扱うように。先生は異常なほどに優しい。

 そういうところが嫌いだ。私はガラス細工じゃない、激しく求められたって壊れることなんてない。それなのに、先生は私を壊そうとしない。

 宝物みたいに、酷く優しくそっとしか触れない。先生の、そういうところが嫌い。保健室も嫌い。

 病院を思い出させる白いシーツ、消毒液の鋭い匂い、コーヒーの、私と先生の埋まらない距離をありありと感じさせて、嫌悪さえ感じる。それでも、この人を求める熱を遮ることはできなかった。

 黒髪の黒縁メガネの白衣を着た先生は、空という爽やかな名前にもかかわらず、陰気な雰囲気をまとっている。

 陰気なのに、とても整った容姿をして、陰のある薄暗い笑みを絶やさない。心には触れさせず、はるか遠方から見守るような愛しか与えない。踏み込みたい。それを願うのはいけないことだろうか?

「私のことが好きですか?」

 二度目の問いにも困った顔しかしない。

「それなら」

 震える指で一つ、一つ、ボタンを外す。怖いわけじゃない。ただ、触れたい欲で震えが止まらない。欲望なんて淡白な性格の私が、持つなんて思わなかった。

 先生のおびえる優しい瞳に噛みつきたい。白い肌に傷をつけたい。加虐にも似た独占欲は私を衝動でがんじがらめにして突き動かす。二つまで外したボタン、はだけた肌に先生は視線を逸らす。

 そらした顔をなでるように、そっと先生に触れる。生きてないみたいに冷たい頬、陶器のようなシミ一つない肌。わずかに震える唇の、青ざめた色が恋しくなる。

「そういうことは学校ではしない」

 背けたはずの目がちらりと私を見ている。瞼で隠そうとするその瞳の中には、私しか映っていない。

 瞳の優しさは陰り、炙られるような焦燥感が映る。

 欲に染まった先生の顔に頬ずりしたい。

 優しく甘やかしてほしい。そんな自分勝手な欲ばかりが、から回る。甘美な一瞬を焼き付けて、先生が何かをこらえても抑えきれないで震えるのは、私と同じ。欲と愛情の熱に浮かされているから。

「先生は私が好きでしょう?」

 なめらかな唇を食むように口づけた。先生の肌の柔いメンソールの匂いがたまらない。深く口づけ、先生の髪に触れようと頭に手を伸ばした瞬間に、強く抱かれ、求められた。

 頭を固定され、むさぼるように口づけられる。息つぎをするたび、すがるような瞳で何度も薄目を開けて、見つめられる。臆病で寂しがり屋の先生は、いつもこうやっていちいち確かめて、私のことを気にかけて、そうやって許しを得ないと先に進めない。

 そして罪悪感に満ちた目で、私を優しく抱きしめるのだ。こんな臆病な先生が好きだ。何度も擦り切れるぐらい唇を合わせ、存在を確かめるように頬に触れられ、求められる瞬間に喜びを感じる。

 言ったこともない「愛してる」が口をつきそうになる。愛されるなんて私の人生にはなかった。それは恋愛だけではなく、友達や家族、すべてにおいて先生に向ける感情、先生に向けられる感情、全部と比較したら何もないのと同じ。

 甘く深い泥沼。抜け出す思考すら奪われて、気が付いたら互い以外の何もかも失っている残酷な泥に沈んで、息も絶え絶えに呼吸を繰り返す。

 私はブラウスのボタンをかじかんだ指先で不器用に外した。三つめ、四つ目とボタンを外していくと指が震えた。嬉しさからなのか、怖いからなのか、理解したくなかった。

 先生は私の手を制止する。そしておでこに唇を寄せ、悲しそうに笑う。

「人を好きになれば、知ってはいけない秘密を知ることになる。大人になれば嫌でもその秘密を知ってしまうけど、知ったら後は引きずりこまれるだけだ。純粋だった頃には戻れない。薄汚れてそれを正当化するために行為を繰り返す。それは醜いよ」

 ようやく口を開いた先生は、そう言って震える私に白衣をかけて、机に置いたままのコーヒーに口をつけた。香ってくる、苦いコーヒーの匂いに嫌悪した。

「先生は純粋なのが好き?」

 私は着崩したブラウスを着直して先生に問いかける。

「先生がそういうのが好きなら、私は先生とセックスするのはあきらめる。だから、もう一度キスして」

 コーヒーを飲みながら、先生はじっと見ている。困ったふうでも、怒ったふうでもなく、悲しんだ青い目で。先生はきっと、私なんか見ていない。見ているのは同じ名前のくすんだ灰色の空なのだろうと思った。

「君を大切にするっていったよ?」

「聞いてない」

 即答すると先生は大げさに笑った。私に向けた苦笑いなのに、それでも頬笑みは自分への嘲りや自傷のような刺々しさを持っていて、やはりこの人が好きだと思った。

「先生が好きなの。暗くてじめじめしていて、カビが生えそうな陰気さが好き」

 何の悪気もなくいうと先生は少しだけ眉をつり上げた。

「どうせなら、先生のもっといいところ好きになれよ。あるだろ? 顔だって不細工じゃないし、優しいし」

 必死にそう言い募る先生を見ると、心がきゅっと締め付けられるように可愛く見えて悶えるかわりに笑った。

「知ってる? いいところない人ほど自分のいいところは優しさだっていうの」

 先生は少しだけ困った顔をして黙った。

「ねぇ、先生。やっぱりセックスして」

「ダメ」

「どうして」

 私は至って真面目に聞いているのに、先生は困ったように笑うことしかできない。その時またもや思う。困った顔の先生が嫌いなのに、好きなのだと。

 彼はいつも、私が後悔しないように、私を傷つけないように言葉を選んでいる。誰も傷つかないように、誰にも自分を押し付けない。望まれる事にさえ、傷つける要因として見て、愛される自分を信じようとしない。

 彼には彼を刺す刺がある。その刺は決して、人には向かない。向かないで自分を刺し続ける。その自滅にも似た優しい刺が、焦がれるほどに愛おしい。まるで優しさが毒のように、熱くドクドクと血管に、骨に、全身に、沁み込んで頬を火照らせる。

 それが可愛そうで、痛々しくて、私はこの人を求める。

「先生、好きだよ。たとえ、死んでも好きだよ」

 先生は拒絶するように耳を両手で塞いだ。先生は私が好きだ。それでいい。それだけで私は何も望まないから。

「……先生。私の病気、判明したよ。ドッペルゲンガー症候群だよ」

 先生は何も言わず、悲しく目を見開いた。その悲しくも驚いている様子さえ、ああ、好きだと思った。

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