神を待つには、人が多すぎた

妙神仕

神を待つには、人が多すぎた

 王都に警鐘が鳴り響いたのは、太陽が昇りきる前だった。

 金属を叩き割るような音が、空気を震わせて遠くまで伸びていく。


「……火事か?」


 通りの誰かがそう言った。俺も最初はそう思った。最近は乾燥していたし、どこかの倉庫が燃えたのだろう、と。だが、音は一度で終わらない。間を置いて、また鳴る。重く、切迫した調子で。


 通りのざわめきが変わった。人が走り出し、噂が噂を呼ぶ。


「魔物らしいぞ」

「外壁を越えたって」

「神殿へ行け!」


 最後の声に、俺ははっとして妻の腕を取った。

 こういう時、大神殿へ向かう――それは王都で生きてきた者なら、誰の胸にも根を張っている判断だ。 信心深いとは言えない俺でも、迷うより先に体が動いた。

 神の加護を、せめて妻にだけでも。


 だが、神殿前の広場に辿り着いた時、嫌な予感は確信に変わった。


 大階段は、すでに人で埋め尽くされていた。前へ進もうとする者と、押し戻される者が入り混じり、怒号と悲鳴が渦を巻いている。


「入りきらないのか……?」


 誰に言うでもなく呟いた瞬間、群衆の端が悲鳴を上げた。振り向いた先で、異様な影が跳ねる。人の形をしていない、黒ずんだ塊。魔物だ。


 一瞬、時間が止まったように感じた。次の瞬間、熱が弾ける。魔物が燃え上がり、悲鳴を上げて地に伏した。


 編み込んだ赤髪を揺らした女の魔法使いが、魔物の死骸に寄るのが見えた。助かった、と誰かが叫んだ。だが、その声はすぐにかき消された。


 人は増え続け、階段は詰まったまま。救いは、無限ではない。その事実が、遅れて胸に落ちてきた。


 その後も、遠く近くで魔物が現れた。衛兵と魔法使いが応戦しているのが見える。戦ってはいる。だが、守られているとは思えなかった。


 妻は、祈るように手を合わせていた。


「……大丈夫よ。信徒が多すぎるだけ。最後には、お守りくださるわ」


 その言葉に、俺は返す言葉を見つけられなかった。信徒が多いから救えない神を、どう信じればいいのか分からなかったからだ。


 その時だ。


 空気を裂くような、大声が響いた。


 何を叫んでいるのかは聞き取れなかった。ただ、その声の元らしき金髪の男が、異様な高さに跳びあがり、魔物を一刀で斬り伏せたのが見えた。人間が、あんなに飛べるものなのか。


「俺が絶対に守る!! ついてこい!」


 怒鳴るような声。振り向けば、血に伏した民の亡骸が視界に入る。神を待つか、この男について行くか。選択は、あまりにも残酷な形で突きつけられていた。


 俺は、妻の肩を強く掴んだ。


「行こう」


 そう言った声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「待って。まだ……神殿が……」


 妻は階段の方を見ていた。進まぬ群衆の向こうに、何か確かなものが残っていると信じるように。


「ここにいたら、死ぬかもしれない」


 それだけを、はっきり言った。

 嘘は混ぜなかった。脅しでもなかった。ただ、事実だった。


 妻は何か言い返そうとして、口を開き、閉じた。その視線の先で、人が倒れていた。誰かが声を上げたが、足を止める者はいない。血に濡れた手だけが、踏み荒らされる地面の上に投げ出されていた。


「……でも、最後には、お守りくださるはずよ」


 祈るような声だった。自分に言い聞かせているのだと、すぐ分かった。


「もし」


 俺は、一度言葉を切った。


「もし、これでお前が死んだら……俺は、もう神を信じられなくなる」


 妻が、はっとこちらを見る。

 責めるつもりはなかった。ただ、それが俺の本音だった。


 長い沈黙のあと、妻はゆっくりと頷いた。


「……行きましょう」


 その声は、泣いてはいなかった。ただ、震えていた。


 俺は妻の手を引き、その列に加わった。


 金髪の男が率いる一団は、王都の外へ向かっていた。大神殿に群がっていた、一部に過ぎないが。老人も子供も混じっている。統率が取れているとは言い難かったが、少なくとも、その場で立ち尽くすよりは、前へ進んでいた。


 何が正しいのか、もう考えてはいなかった。ただ、生き延びるために足を動かした。


 南関門を越え、どれくらい経っただろう。魔物は来なくなったようだが、恐怖にたびたび振り返る。

 すると、城壁の向こうで、黒い靄のようなものが、ゆっくりと立ち昇り始めているのが見えた。


 夜になり、使われなくなって久しい駐屯地に辿り着いた。焚き火が焚かれ、人々は肩を寄せ合って座り込む。誰もが疲れ切っていた。


 その時だった。


「……あれ……」


 誰かの声につられて、皆が同じ方向を見た。

 遠く、王都の中心。大神殿のあたりから、あの黒い靄が、はっきりと立ち昇っている。


 妻の顔から、血の気が引いた。


「……地脈幹が……」


 呟くような声が、やがて叫びに変わる。


「神が……神が、いなくなった……!」


 妻は取り乱し、肩を震わせた。周囲の人々も、ただ茫然と立ち尽くしている。


 俺は、何も言えなかった。

 だが、不意に、昔の会話が頭に浮かんだ。


 ――地脈幹は、神の御力であって、神そのものではない。


 以前、妻が教えてくれた教義だ。


「……神がいなくなったわけじゃない」


 そう言うと、妻は驚いたようにこちらを見た。


「御力が……見えなくなっただけだ」


 それが慰めになるかは分からなかった。

 それでも、妻はしばらく黙り込み、やがて、静かに息を吐いた。


 拠り所は、失われたままだ。

 俺も、仕事道具を王都に置いてきた。これからどう生きるのか、分からない。


 それに……


「父さん」


 鎧姿の青年が、焚き火の向こうから歩いてきた。


「母さん」


 息子だった。


 妻の吐息と肩が落ちる。


 親子三人が揃った。ただ、それだけで、十分だった。

 世界は壊れたままだが、俺たちは、ここにいる。

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