親父の暗証番号

篠崎リム

親父の暗証番号

 遺品整理も、あと少しで終わる。

 親父の物を手に取るたび、思い出が不意に蘇り、そのたびに手が止まった。

 何度も中断を繰り返しながら、ようやく作業に目処がついた。


 部屋の隅で、そいつを見つけた。

 埃を被った古い机の奥に、そいつは蹲っていた。

 持ち上げようとして、思った以上の重さにすぐ諦める。結局、金庫は床に置いたままだ。


 見た目は平凡だ。

 業務用というほどでもなく、家庭用としては無骨。

 四桁の番号を合わせるだけの、簡素な金庫。

 触れた瞬間、ひんやりとした金属の感触が掌に残った。


 俺は床に座り込み逃げ場のない距離で、無言のそれと対峙する。


 番号はわからない。

 だが四桁だ。

 間違えても問題がないタイプの金庫だし、最悪、総当たりで開くこともできる。

 それに、親父の考えそうなことは、なんとなくだが見当がつく。

 覚えやすくて、単純な番号。


 まず、思いつくのは誕生日だろう。

 親父の誕生日は九月三日。

『0903』

 数字を入力し、手を止める。

 ……だめか。


『9933』『9903』『0093』

 指でボタンをピッピッと押す。

 金庫は沈黙したままだ。


 関連ありそうな番号をいくつか試すが、やはり開かない。

 次に、家族の誕生日も入力してみる。

 結果は同じだ。


 少し安心した。

 中身はわからないが仮にも金庫だ。

 さすがの親父も、そこまで分かりやすい番号にはしていなかったらしい。

 ――が、まだ油断はできない。

 どうせ誰にも分からないだろう、という慢心が、ゾロ目という一番安易な選択をさせるのだ。


 ちなみに俺のスマホの暗証番号は9999だ。


『1111』……『9999』

 全てのゾロ目を試すが、黒のそいつは口を開くつもりはないらしい。

 どうやら親父の金庫は、俺のスマホよりずっとセキュリティが厳重のようだ。


 念のため『1234』などの投げやりな番号も入れてみたが、結果は変わらない。

 ここまで来ると、親父のラッキーナンバー、

 もしくは普段パスワードに使っていたような番号だが、それはもう調べようがない。


 最後の手段は、やはり総当たりとなる。

『0001』『0002』と頭から行くか。

『9999』『9998』とケツから行くか。


 非常に迷うところだ。

 だが、まだ誕生日の線が完全に消えたわけではない。

 祖父や祖母、もしくは親父の兄弟――

 愛人は……ないな。


 誕生日だとしたら、頭から攻めるのがいいだろう。

 割と序盤で開くかもしれない。


 もっとも、

 親父が俺の思う以上に切れ者だったなら、

 総当たりを警戒して、4000〜6000番あたりを選ぶ可能性もあるが……。


 それは、もう親父のみぞ知るところだな。


 薬指と親指を曲げ、指をコキッと鳴らす。

 それから、頭から入力を始めた。


 ――数字はすでに『1000』を超えている。

 まだだ。まだ、全体の一割にすぎない。



 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 プー。


『2000』を超えた。

 これで完全ではないにせよ、誕生日説はある程度消えたと言っていいだろう。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 プー。


 これ、微妙にテンポ悪いんだよ。

 例えばね『2222』て押すじゃん?

 連打するよね? 『22 』とかになるんよ?

 ダメなの、早いとね、入力受付ないんだよ!

 ……少しは、金庫破りする身にもなってくれ!


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 プー。


 その音を、すでに四千回は聞いている。

 いい加減、耳にこびりついて離れない。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 プー。


 はーい、『7000』超えました。

 やっぱり俺の思った通り、親父は切れ者じゃなかったです。

 はいはい、俺の予想通りでーす。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 プー。


 ……あぁ。うん。

『8000』も超えてるけど、俺、どっか飛ばしたりしてないよな?

 なんか途中で、数字を十番くらいまとめて飛ばしてる気がしてくるんだよ。

 これ、最後までちゃんと入れれば、本当に開くよね??


『9000』


『9500』


『9600』


『9700』


『9800』


『9900』


 ――いや……嘘だろ……。


 これ、本当にどっか数字飛ばしたか……?


 指先はとっくに痺れ、緊張で意識も朦朧としてきた。

 あと、ほんの数十回。

 これで開かなければ、俺は最初から、一万通りの絶望をやり直すことになる。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 ガチャッ。


 ……開いた!?


 液晶に表示された数字を見て、俺は脱力して床に寝転んだ。

『9998』


 ……いや、もう数字、全部入れましたよね。

 余すところなく、きっちり堪能させていただきました。

 本当にありがとうございます。


 親父はやっぱり馬鹿だったらしく、

 覚えやすい数字に落ち着いたようだ。


 もうね、全部俺の読み通りなんですよ。

 ここまで苦戦したのは――

 親父を、ほんの少しだけ買い被っていたからなんですよね。


 ……まあ、いい。

 結果的に、この金庫は俺に屈服したのだ。

 俺はそいつの腹の中身を覗き込む。

 中にあったのは、小さな紙の箱。

 俺は、そこへ手を伸ばした。



 親父が吸っていた銘柄だ。

 それは今売られているものとは違う、

 一昔前のパッケージだった。


 金庫の中を隅々まで探してみたが、他には何もない。

 拍子抜けするほど、空っぽだ。肩の力がすっと抜け、思わず大きく息をついた。


 タバコの箱を手に取ったまま、サンダルを突っかけて庭に出た。

 朝からあの作業をやっていて、気づけば外はもう夕方。

 夕暮れの光が庭の草を赤く染めていた。長時間の格闘で肩は重く、腕も痛い。


 しけった親父のタバコを咥え火をつける。

 だが、火は揺れてすぐに消えた。


 次は、手で風を遮ろうとした。

 ――いや、正確には、そうしようと思っただけだ。


 まだ手を動かしていないのに、

 なぜかその瞬間、火がふっと落ち着いた。

 風は相変わらず吹いているはずなのに。


 火のついたタバコを、俺は隣に置く。

 それからもう一本、同じように咥えて火を近づけた。


 今度は、迷うことなく火が移った。

 指先に伝わる紙巻きは柔らかく、

 火を近づけると、じゅっと小さく湿った音を立てた。

 吸い込むと、苦くて重い煙が喉に絡みつく。


 ふと、昔の父の姿を思い出す。リビングで新聞をめくりながらタバコをくゆらせ、母にどつかれて仕方なく庭に出てタバコを吸う親父の背中を思い出し、思わず笑った。


 親父のタバコの煙がやけに目に染みて。

 ただ、少しだけ泣いた。


 涙を拭い、俺はポケットからスマホを取り出す。

 設定画面を開き、暗証番号の変更画面を呼び出した。

 四桁の数字を打ち込む。

 指先は、さっきまでの過酷な作業のせいで、まだ少しだけ震えていた。

 『9』『9』『9』――。

 そこで一瞬、指が止まる。

 俺は空を見上げ、最後の一回だけ、力強く画面を叩いた。

 『8』

 登録完了の小さな振動が、掌に伝わる。

 それは、世界で一番馬鹿げた、けれど誰にも解けない数字。

 もう一度、深く煙を吸い込む。

 紫煙の向こうで、夕闇が静かに降りてきていた。

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