第2話 ツンデレ猫魈の襲来


​ 一月二十日の冷たい風と共に現れたのは、闇夜を切り取ったような漆黒の毛並みを持つ猫だった。

 しなやかな肢体、金色の瞳。そして何より異様なのは、その尻尾がさくらと同じく……いや、さくら以上に立派に三又に分かれていることだ。


​「お邪魔するよ。噂の『ゴッドハンド』ってのは、本当かい?」

​ 黒猫は、まるで貴婦人がサロンに入店するかのような優雅さで、私の炬燵こたつの天板に飛び乗った。


​「なんだ、サファイアか。見ての通り、私は今、歴史的な修羅場の真っ最中なんだが」


​ 私は左手でスマホを握りしめたまま、警戒心を露わにする。右手は依然として、さくらの顎の下から抜け出せずにいる。


​「『なんだ』とは心外だね。そこの三毛猫……さくらの親友なのにさ !」

​ サファイアと名乗る猫、正体は猫又の上位種である猫魈ねこしょうは、フンと鼻を鳴らして私を見下ろした。


​「さくらから聞いたよ。月影の手は『魔法』らしいね。ひと撫でで極楽浄土へ行けるとか何とか」


「……買い被りだ。ただの猫好きの小説家に過ぎない」


「謙遜はいいよ。ボクは忙しいんだ。……最近、どうも肩が凝っててね。妖怪稼業も楽じゃないのさ。寝不足で毛ヅヤも悪いし……」


​ サファイアはふいと視線を逸らし、少しだけ弱ったように背中を丸めた。

 その仕草が、私の「猫好きセンサー」を激しく刺激する。

 強気な美女がふと見せる弱音。これは、歴史小説で言えば『濃姫のうひめが信長にだけ見せる涙』に匹敵する破壊力だ。


​「おいおい月影。ボクを待たせる気? ……さっさと楽にしてよ」


「し、しかし、締切が……」


「えぇー? ボクの頼みが聞けないの?」


​ サファイアがジロリと私を睨む。だが、その瞳の奥には「お願い、撫でて」という切実な響きが見え隠れしていた。


 ああ、畜生。


 私の小説家としての矜持きょうじは、猫の愛らしさの前では紙切れよりも薄い。


​「……わかった。特別だぞ」


​ 私は、命よりも大事な執筆道具であるスマートフォンを、そっと畳の上に置いた。

 画面の中では『信長』という文字が、助けを求めるように点滅している。すまない、信長。後で必ず天下を取らせてやるから。


​「ほら、左手が留守だよ? ボクの指定席だね」


​ サファイアが待ってましたとばかりに、私の左手のひらに頭を擦り付けてくる。

 右手には、甘えん坊のさくら。

 左手には、ツンデレ猫魈のサファイア。


​ ここに、月影流究極奥義『双頭ダブル・ゴッドハンド』が発動した。


​「ここか? それとも耳の裏か?」


​ 私の十本の指が、ピアノを弾くように繊細に、かつ大胆に二匹の急所を捉える。


 さくらは「んあぁ~」ととろけ、サファイアはビクリと身を震わせた。


​「くっ……! えぇー、なになに、この指の動きは……!」


​ サファイアが抗うように唸く。


​「ド底辺アマチュア作家が……この高貴なボクに触れるなんて……あっ、そこ! そこは……反則……だよ……」


「強がっても身体は正直だぞ、サファイア」


「う、うるさい……! 悪く……ない……いや、最高……」


​ 数秒もしないうちに、サファイアの強気な仮面は崩れ去った。

 彼女は私の左手に全体重を預け、喉をゴロゴロと鳴らし始めた。その音は、さくらのそれと共鳴し、部屋中に幸せな重低音、ハーモニーを響かせる。


​ ああ、至福だ。


 両手に猫。これぞ男の夢。歴史に名を残すことよりも、今この瞬間、二匹の猫を満足させることこそが、我が人生の誉れではないか……いや、違う!


 私はハッと我に返り、畳の上のスマホを見た。

​ 画面はスリープモードに入りかけて、薄暗くなっている。


 両手が塞がっている。


 完全に、物理的に、執筆が不可能な状態だ。

​ 時計の針は午後五時三十分を回っていた。


 残り時間、三十分。


​「まずい……このままでは、お題フェスどころか、作家生命が終わる……!」


​ 私が青ざめたその時。

 薄暗くなりかけたスマホの画面が、カッと激しい光を放った。


​『ピロリン♪』


​ 軽快な通知音と共に、画面いっぱいに「雀色のアイツ」のドアップが表示される。


​「……おい月影。なぜ手が止まっている? 

お題フェスに参加しないつもりか……なんだホッ」


​ 画面の向こうから、地獄の編集者(マスコット)が降臨しようとしていた。





​ ── 第3話へ続く ──


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