第4話 酷い我儘を残して
妹の物語に出てきた兄の私は、弱く脆く、狡猾でひたすらに酷い人間だった。けれど、恨みなどこの物語にはなかった。あったのは愛されない悲しみだけだった。
それに胸をなでおろす部分もあれば、憎まれていたなら、この罪悪感を拭えると縋っていた部分もあったせいで、余計に苦しかった。
ひどくみすぼらしい気持ちだった。結局、今に至っても私は自分の感情を優先させてばかりなのだ。
この手記は、妹の純粋さと愛情が詰まっている。自分とは程遠いものだと痛感して、惨めで情けなくて。この期に及んでも自分のことばかりで涙が出る。
「愛……。ごめん、ごめんな。俺はなんもできなかった。この期に及んで自分の体裁ばかり気にして……。情けない兄ですまない、すまなかった……」
彼は冷たい目で俺を見下しているだけだった。
「お前にはもう二度と愛に会わせない」
私は何も言うことなく、俯いたまま頷いた。涙あとから次々あふれてうまく言葉が紡げなくて、必死に気持ちに理由をつけて、言い訳をして、この悲しみを誤魔化したかったのに、彼が肩を叩いて黙ったまま、慰めるように頷いたのを見てようやく気付く。
何も言う必要もない。ただ悲しいと泣けばいいだけなのに、どうして何もかもに理由をつけて、耐えることばかり自分に強いているのか。
「償いに死を選ぶなら、愛のせいにするな。愛のせいに、これ以上、あいつに何も背負わせるな。死にたいのなら俺が殺して償わせる」
彼は震える声で何度も言った。
「これから俺はあいつが見れなかった景色を俺が見るんだ。本当にこれからなんだよ」
涙で歪みながら、俺は初めて無様に泣き縋った。
何度も何度も、彼は悔しそうに唇を噛みしめていた。ずっと何かを悩んでいる様子だった。
「お兄ちゃん。ねぇ、お兄ちゃん」
その夜、久しぶりに愛の夢を見た。幼い頃よく遊びに出かけていた山岡の展望台。森の中にある庭はなぜか光で白んで景色が霞んで見えていた。
愛が走り回っている。はしゃぐ小さな体を見て小さなころの愛を思い出した。四歳くらいだろうか。小さく華奢な体をいっぱいに動かし、楽しく駆け回っている。つられるようにゆっくりと彼女を追いかけた。
あたりは、クローバーが咲き乱れ、白く丸い花々が風に揺れて小さく踊っている。
愛は足を止め、いつのまに作ったのかわからない白詰草の冠を、嬉しそうにかぶって私の方へ向かってきた。私はひざを折り、彼女の目線に合わせた。
「あげる」
彼女が手渡してきたのは、四葉のクローバー。
「怒ってないよ」
そういった愛の表情は無邪気なものではなく、呆れたような寂しげな笑顔だった。
「……愛」
唇が震え、目頭が熱くなるのを必死に抑えて、息を止めて無理やり笑った。
「……今度はいい兄になるから。お前を誰からも守るから。また生まれ変わっても妹でいてくれるか?」
声が涙で震える。その瞬間、愛が私の頭をぽんぽんと叩いて屈託もなく微笑む。
「誰もね、悪くないの。悪くないんだよ」
その声があんまりにも優しくて、誰のせいにもできなかった愛の脆さや誠実さで溢れていて、思わず抱きしめた。彼女の優しい肌の匂いが懐かしくて涙がにじんだ。
どうして俺はこんなに優しい妹を大事にできなかった? 自分の保身ばかりに気をまわし、こんな小さくか弱い妹一人、助けることができなかった。それどころかその優しさに甘え続けた。
「……なんで、私はお前を助けてやれなかったんだろう……。こんな簡単な答え、すぐにみつけられなかったなんて……。ごめん。お前を一人にした。守ってあげられなかった。情けないお兄ちゃんでごめん、ごめん」
愛は抱きしめられながら私の背中をぽんぽんと優しく叩いて、小さい子に言い聞かせるように言う。
「あのね、私もお兄ちゃんがいい。また生まれ変わってもお兄ちゃんになって、ずっと一緒にいて」
静かに飛び立ったタンポポの綿毛を横目に見ながら、私と愛は抱きしめあった。本当はそれだけでよかったことなのに、どうしてこんなにも気づけないで、傷つけてしまったのだろう。いつも気づけないのは、自分のことばかりだからなんだろう。
しばらくしてから、愛は真剣な顔をして言い放った。
「樹を助けて」
「……えっ」
俺が驚いて愛を見ると、愛は少しだけ悲しそう俯いた。
「あの手記に書かれてることはほとんど本当。でも、一つだけ違うことがある。私は自分で死んでないの。私は樹に殺してって頼んだの。お兄ちゃんに嫌われたからもう生きていたくないって殺してって頼んだの」
「……」
毛穴から一気に汗が噴き出す。
何も言えなかった。こんなの夢だ。願望だ。夢だから信憑性なんてない。けれど、頬を撫でる生々しい汗の感触を信じてしまう。
「あのね、本当に住職が黙ったまま私の遺体を処理すると思う? 檀家、それも大きい名家の娘である私の遺体を黙って火葬すると思う? 樹は自分以外の、それも信用ある人物の名前を出して話に説得力を持たせただけ。それに納戸の血の件だっておかしいでしょ? 人が死に至るほどの量の血を本当に跡形もなく片づけられると思う? 納戸は板の間ですらないのに。畳をひっくり返したって畳に蛆がわいてバレるよ。樹は手を差し伸べなかった大人たちに復讐したかったのもあるの。これで樹がお兄ちゃんを殺せばすべてが公になるから」
愛は冷静に言い放つ。
「それにあの手記、読んでいて違和感なかった? どう読んだって小説みたいな書き方だよ。あんな日記の書き方、普通しないでしょ? 樹はお兄ちゃんを殺した後で、自殺するつもりなの。だから、誰も知らない私と樹のことを、たった一つ、私が思い悩んで残した私の人生を、きちんとした形で残したかっただけ。でもあの人は臆病だから、お兄ちゃんを殺した後に自殺するなんて怖くてできない、不器用なの。だから……助けてあげて」
愁いを帯び視線を下げた妹の瞳は、驚くほどに色っぽく、心臓が飛び上がるほど女性らしかった。
「あのね、私――」
ぷっくりとした柔らかそうな唇で、その言葉を口にした妹に私は首を縦に振って「約束」を交わした。
その瞬間、私は目を覚ました。
冷汗をかいた肌に服が張り付いて、気持ち悪い。息が整わない。上手く呼吸ができない。ただ、愛と交わした指切りの感触が消えなかった。
ああ、そうか。愛は彼を本当に愛していたのかと。本当に骨の髄まで愛していたんだと。
俺は台所に行くと、冷たい水を汲み、喉に流し込んだ。鈍く光るシンクに窓からもれる月明かりを反射してその光で頭がさえていくようだった。
次の日の放課後、私はまた音楽室で彼を待つことにした。
夕日がまぶしく、思わず目を細める。
中に誰かがいることをなんとなく理解していた。音を立てないよう、そっと音楽室の扉に手をかけた。
開けた瞬間、じっとりとしめつくような重たい空気を肌で感じた。歯鳴りのような音がわずかに聞こえ、隅の方で神名がうずくまっているのが見えた。
俺は黙ったまま窓を開ける。
途端に冷めた空気がカーテンを揺らしてふわりと浮き上がる。神名は怯えた子供のような表情で愛の遺骨を抱きしめ、縋っているように見えた。
「神名……」
自分の上ずる声に驚いて自分が酷く彼を不憫に思っていることに気づいた。
全てから見放された瞳をして、見るものすべてを傷つけるような棘を纏い、神名はナイフを握りしめながら震えている。愛を殺した時のことが頭をよぎっているのかもしれない。愛する誰かの望みとはいえ、それがどれほど辛いことかなんて、言われなくてもわかる。
俺ならできない。そしてできないからこそ、苦しめ続けた。
想いの示し方とするなら、間違っている。
愛する誰かの望みといえど、これは間違ったことだった。けれど、こんなに苦しみながらでも愛のために行動し続ける彼の想いを否定することもできない。
「……お前、私を殺すつもりなんかないんだろ」
神名は答えず、ガタガタと震えた体を抑えるように自分を抱きしめている。
「もう誰も責めてなどいない。怖いならそんなことしなくていい」
神名の目はひどく怯えて、青ざめた唇を噛みながら「愛を殺した瞬間、もう俺は救われなくなった。救われないんだ。だからせめて寂しくないようにお前を」
うわ言のように呟きながら、愛に頬を寄せた。憔悴しきった表情で、青ざめた顔色で、縋るように助けを求めるように、愛を抱きしめている。それはもう愛じゃなく、執着に見えた。
「なぁ、お前はどんな気持ちなんだ?」
思ったことがそのまま言葉になった。
「お前が愛を大事に思っていたのは知っている。それで愛の想いを果たそうとしているのもわかる。でも、今のお前を愛は本当に望んだのかって不思議なんだ。……なぁ、愛はお前の夢にも出てきたのか?」
神名は歯をがたがたと震わせながら、一度だけ首だけ縦に振った。
「もう頑張らなくていいと言われた。けど、それじゃ、俺はどう償えばいい?」
神名が握ったナイフは、震えのせいでもうまともに持ててはいなかった。両手で必死に押さえつけてなんとか手の中に収めているだけ。
俺は神名に近づき、ひざを折って目線を合わせる。神名は体を震わせて必死に俺に刃物を向けた。彼が今までどれほどの想いや葛藤を抱えていたか、その様子でわかった。
「償いなら私がしよう」
俺は神名の震える手をひねり上げて、ナイフを奪うと神名の腕に思い切りナイフを付き刺した。鮮血が舞い、ぼたぼたと床に血が滴る。途端にくぐもった声をあげ、怯えに染まる目をした。
転げまわるように神名は悶え、それでも愛の骨を放そうとはしなかった。離せないその姿に俺は少し安堵した。
「なぁ、神名。全部俺が背負うよ。お前はもう自由に生きろよ」
俺はそういうとナイフを握ったまま、神名の胸ポケットのスマホを取り出して、110を押した。
「な、なにを」
ようやく我に返った神名は横たわったまま、俺を見上げる。私は警察に電話がつながった瞬間、思い切り神名を殴った。
「お前が黙っていればよかったものを。私が妹を、愛を殺したことを黙っていれば、死なずに済んだのに」
そういいながら、よく声があがるように神名の腹を何度も蹴る。うめき声をあげながら、神名は嘔吐した。
警察なら逆探知でもして、ここを突き止めるだろう。それまでの間、俺は神名に暴行し続けた。
しばらくすると、電話は切れ、俺は暴行を辞めた。
私はあの時の妹の気持ちがわかった。
「兄さん、あのね。私、樹に幸せになってほしい。ずっと幸せでいてほしいの。でもそれでも、誰よりも忘れられたくない。忘れられたくないよ」
夢で訴える妹の最後の願いをかなえられるかわからないけど、そうせずにはいられない。
神名を眺めて言う。
「妹を、愛してくれてありがとう」
俺はそういってナイフをつかむと、自分の首に刃先を向けた。
俺が死ぬことで、神名は罪から逃れられるだろう。
なぁ、これでいいんだろう。神名に忘れられないためにこんなに残酷な結末を望んだんだろう。なぁ、愛。お前の最後のわがままは、相当酷い我がままだよ。それでも、こんな残酷なことをしても、忘れられたくないだな。
冷たい刃が首を裂く。神名が何か叫んだ気がしたけれど、俺はそのまま永遠の眠りについた。
白骸の恋 雨宮汐 @lyrics-ia
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