第3話 神名樹の手記

 神名 樹の手記は次の一文から始まった。


 愛という人間をここに書き記そうと思う。

 朏 愛。彼女は名家の生まれで在りながら、後妻の連れ子という朏家に縁もゆかりもない身の上だった。

 そのため、彼女は家族から疎まれ、事情を知らなかった兄以外からは冷遇されていた。

 ひどく優しい性格が、凍てついた家族関係の中で犠牲となるのに時間はかからない。彼女はよくこの言葉を口にしていた。

「優しいってよく言われるけど、自身には功をなさない。得するのは周りだけ」

 わびしい表情で、彼女はそう吐いては俯いて顔を横に振っていた。それは自分の情けなさを否定し、戒めるしぐさだったと思う。

「でも、兄さんだけは違うの。守ってくれる。だからまだこの家にいようと思える」

 彼女の視線は希望を見出すように上向きで、唯一の肉親だとも思える兄に縋り、依存していた。俺はそれが面白くはなかった。

 否応なしに事態が悪化していくことなどわかりきっているのに。

 人間は脆いのだ。ストレスや依存を向けられ続ければ、どちらかが必ず音を立て折れてしまう。俺はそれを望み、見て見ぬふりをし続けた。

 俺は愛を盗みたかった。

 彼女の華奢な腕が好きだった。手を引くと折れてしまいそうな繊細さが愛しかった。彼女のそばによると香る、女の優しく甘い匂い。触れれば壊れてしまいそうな脆さが、儚さも相まって魅力的に見えた。

 一人になると、憂いを帯びた目をする彼女の瞳が、曇って濁るのにその憂鬱な色が息を忘れさせるほどに美しい。

 吐いた息から香る女の甘美な匂い。一つ一つの所作までが整って美しく、星を見て指をさし、微笑むその姿すら、魅了してやまなかった。

 家族に愛されないことに悩み、一滴こぼした光の雫を隠すように微笑んで「ごめんね」と謝られる度、心が痛んだ。笑顔が見たくていつも言った言葉は、照れ隠しが混ざってちゃんと伝わらない。

「俺はお前のこと嫌いじゃない」

 意地が先走る。思春期の羞恥が好きだと言わせてくれない。例え、いえたとしても、とてもそんな言葉では追いつかない。

 ありきたりな優しいからとか、可愛いからとか、そういう誰にでも当てはまり、誰にでも抱く感情ではない。

 ただ強烈にどれほど醜く悲惨な選択をしても、奪い去りたいと願うほどに。俺は彼女を恋い慕っていた。雫の乗りそうな長いまつげ、色づく唇に口づける妄想にどれほど憑りつかれたか知れない。

 俺は愛の心を置き去りにしてでも、彼女が欲しかった。

 静かに移り変わっていく時間の中で、愛とその兄の確執は確かなものになっていった。兄にとって愛は重荷になり、ついには手をあげたのだと知った。必要な荷物だけを届けるように使いとして病院に向かう。その間、愛のことで頭がいっぱいで、心配でたまらなかった。けれどその不安さえ、的中してしまうのだ。

 病室の横開きのドアを開けると、そこは白の空間。

 光が反射するように眩しく目がくらむ。景色が白んで、彼女がその白の中に溶けてしまう気がした。

「愛……」

 声をかけても彼女はうつろな目をしたまま、俯いている。

「愛、どうした……?」

 明らかに様子がおかしく、体が小刻みに震えている。それなのに表情を変えることもしないで、ただ自分の手を眺めていた。

「あの……、大丈夫なのか?」

 そっと触れようとする手を遮るように、愛が声を出した。

「にいさんが……」

 消え入りそうな声だった。ふっ、とろうそくを吹き消すよう息を吹きかけただけで、もう雑踏に交じって聞こえなくなる。

 そんな吐息の声。

「私に消えてしまえって言ったの」

 それを聞いた瞬間、俺は思わず愛を抱きしめた。彼女の継ぎ目が次々解かれて、バラバラになっていく。抱きとめておかなければ、バラバラに砕けて死んでしまう気がした。

「大丈夫! 大丈夫だから! 俺はそんなこと思わない。思わないから!」

 そういっても愛の目は死んだまま、俺は彼女が沈んでいく水の底から引き上げられないでいた。

 愛は兄を愛していたんだと思う。それがどの類の情であるかは知らない。けれど、なんにせよ、その情は愛自身を壊すのに十分なほど、依存しきっていた。

 彼女の頼りない肩がかくかくと震え、何も見えていないような濁った眼を一度閉じてから、彼女は殊の外、上手に笑顔を作った。肩の震えはなくなっていたけれど、隠しきれないで、震えている指先を見ていると、手を隠すように布団にしまって笑った。  

そして、憔悴しきった顔でこういうのだ。

「大丈夫。私は、大丈夫だよ」

 まるで、自分に言い聞かせているようだ。

 この時ほど、自分の非力さを恨んだことはない。当時の俺は十二。どこまでも子供でしかない。彼女と生活するだけの稼ぎ口もなければ、両親さえそろっていない。

 俺の母は朏の家で中居をしながら、女手一つで俺を育てていた。そんな俺に金銭的余裕などあるわけがない。彼女をうちでかくまうこともできない。

 児相に相談しようにも、朏の家は市長との縁が深い家であったし、家の名のためにことをもみ消すのは他愛なかった。

 きっと救いなど、彼女には残されていない。

 それなのに彼女に縋られても、助けようもないのに、俺は彼女の心が知りたい。

「大丈夫……じゃないだろ……」

 言葉にするのが精いっぱいで、俺の目には涙があふれて視界がぼやけている。

「なんで、大丈夫じゃないのに……助けてって言えないんだよ……」

 彼女は一瞬、ぎょっとして固まってから、唇を強く噛んで俯いて泣いた。力なく肩を震わせるその姿が、頼りなく弱弱しいその細い体が、どうしようもなく悲しかった。

 そっと彼女の手に自分の手を重ねていう。

「……わかってるんだ。俺じゃどうしようもないことも。どうしようもないのに、助けたいんだよ。どうすればいいんだよ。どうしたら楽になれるんだよ……」

 愛は涙で濡れた顔をあげて、初めて壊れそうな顔で俺を見て笑った。触れれば崩れる砂の城のようで、波にさらわれて跡形もなくなってしまう笑顔で、俺の手を握った。

「言えないよ……。困らせてしまうのわかってて、そんなの言葉にできない」

 それでもそれが救いだったと言わんばかりに、幸せそうな顔をしてしきりに口にする「ありがとう」がたまらなく辛かった。愛に形があるとするなら、俺の愛は歪んでいるだろう。

 ただの憐憫を、恋と勘違いしているだけかもしれない。

 けれど、それでもいい。それでもいいから、愛をだた、愛してあげたかった。

 初めて彼女のことを抱きしめた。彼女は継ぎ目だらけで、ふとした衝撃で縫い目がほどけてしまうほどに脆く、何よりも壊れやすいくせに、強くあろうとする。いじらしくて可哀そうな子だった。

 愛はこの時の俺の言葉がなければ、とうに壊れて死んでいたといっていた。

「もう……泣かなくていい場所に、行けたらいいのに」

 誰も咎める人がいないのに、どうしてか彼女は声を殺して泣く。それが悪いことだと思い込んでいる。どうして? どうしてまだこんなに幼い女の子が、泣くことすら素直にできないのだろう。どうして、こんなにも我慢しなくちゃいけないのだろう。

「一緒に逃げよう」

 呟いた俺の声に彼女は黙ったままだった。


 それからの日々はまるで、薄氷を歩いているようだった。

 家族の情に飢えていた彼女は、日ごと亡霊のように生気を失い、うつろな目をしては、うわ言のように「泣かなくてもいい場所に行きたい」とぼやくのだ。

 目を離せば声を押し殺し、涙を流す。

 その姿を見るたび、もう彼女は生きていられないのかもしれないと、苦虫を噛み潰す想いだった。

 そんな時、いつも泣いても声の届かない庭園の末の木の下で彼女を抱きしめていた。

 水面のような透き通る夜空に、月だけはきれいだった。この闇の水底に息づく月はぼんやりと光を放ち、俺たちを照らしている。

 ふと、夏目漱石の言葉を思い出す。

「月が……綺麗ですね」

 彼女は驚いたように顔をあげて俺をじっと見る。

「なんで敬語なの?」

「……夏目漱石って人の言葉、知ってる?」

 俺は少し頬を染めて彼女に問いかける。彼女は首を横に振るだけ。

「知らなくていいよ。……大したことじゃない」

 ごまかすようにいったけど、彼女は少しだけ不満そうな顔をしていう。

「いつか月のきれいな場所で意味を教えて」

「月のきれいな場所?」

「そう。あそこがいいかな? 山岡の展望台」

 その時の彼女は少しだけ生きた表情を見せていた。明るい色味の光を宿す彼女の瞳は煌めいては星の雫をこぼしている。

「うん。……いいよ」

 歯切れ悪く言うと俺は彼女と指切りをした。それは子供じみていて、叶うかも叶える気があるかもわからない曖昧な約束。

 それでも心の中で消えてくれない約束だった。

 十二月二十四日。

 世の中はクリスマスイブを楽しみ、にぎやかにざわめく街中で彼女を見た気がした。彼女は成績が振るわず納戸に軟禁されていて、俺はそんな彼女のために隠れてケーキを買いに来ていただけ。

 けれど、見間違えるはずがない。俺は彼女だけを愛していたのだから、どれほどの雑踏にいても見つけられる自信があったのだ。

 それは虫の知らせだったのかもしれない。俺はケーキの形が崩れることを気にも留めず走り出した。

 激しく律動する心臓が痛い。俺は裏口から朏の家に入ると、一目散に彼女の閉じ込められた納戸まで走った。

 扉の前に来ると何かの匂いが充満しているのに気づく、鉄臭い何か……。

 焦燥に突き動かされるまま、扉を何度も叩く。

「愛! 愛!」

 喉が切れて血が出るほど叫んだ。

 応答はない。力なく、うろたえながら問いかける。

「愛……、生きて……るんだよな」

 問いかけにわずかな声が聞こえる。

「ご、めん……ね」

 その声に少しほっとし、ひざを折って座り込んだ。

 その時、俺は気づいてしまった。ドアから染み出す血のあとを。俺は急いで朏の家の管理人に電話をかけようとして気づく。

 もしかして彼女は自ら命を絶とうとしたのではないかと。

 朏は家名が汚れるようなことをするとは思えなかった。愛に対しての虐待でさえ、いつも見えない場所に痣を作っていた。

 それならば、ここまでの血を流すほどのケガを負わせておいて、放置するだろうか?

 彼女の兄が怪我を負わせたときでさえ、病院に連れていっている。それならやはり、彼女は自ら死を選んだのか。

 もし、俺が彼女を助けたとして彼女は救われるのか。この家の道具にされるしかない未来、彼女は幸せなのか。

 俺は覚悟を決めて声をかける。

「月が……きれいですねって、あの意味は——」

 その声は濡れていた。震えて凍えていた。

 愛は少しだけ黙ってから口にしたその言葉に目を見開く。

「あの、ね。……死んでもいいわ」

 その瞬間、彼女がその言葉の意味を知っていたことに気づいた。

 涙で顔がぐしゃぐしゃに濡れて、声を殺して床を濡らしている彼女の血に触れて、その時俺の心は死んだ。

 その後、俺は黙って納戸の鍵を盗み、彼女の亡骸を抱きかかえると、朏が檀家をしている寺の住職に事情を説明し、「もしあなたに情があるのなら何も言わず、ここで弔ってやってください」とお願いをした。

 住職は「あなたも一緒に」と言って骨拾いまでさせてくれた。

 その際に骨壺に入りきらないボロボロの頭蓋骨をもらった。土下座してお願いしますと泣き叫んでもらった。

「それがあるとあなたは縛られると思います。一生、彼女に囚われて生きなくてもいいんですよ」と住職は言ったが、俺は「愛は消えるでしょうか?」とだけぼやくと、住職は少しだけひるんだように生唾を飲んでから黙ったまま彼女の骨をくれた。

 万年栄養失調だった彼女の骨は、ボロボロだった。声を殺して泣く意味を、その時初めて知った気がした。泣いてしまうと、彼女まで泣く気がして。初めてこんなに悲しいのに、泣くのが嫌だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る