第2話 妹、愛の話
私の妹は病弱で泣き虫。いつも怖いことがあると、私の後ろに隠れては、震えて涙を流す臆病者だった。
幼い頃は兄である私に懐き、何処へ行くのにもついてきた。愛らしく白い肌が透き通るようで、まるで小さな妖精のような愛らしさ。私も愛を好んでいた。
幼い頃から感じていたことではあるが、うちの家族は子供に無関心。そして一等、愛には厳しく冷たかった。
しつけとは名ばかりの虐待を受けるたび、そうやって私の後ろに隠れて逃げられる妹をずっと疎んでいた。
何の恨みがあるのか「私の頃はもっと子供に厳しかった。あなたたちは恵まれている」と謗る母親を見るたび、まるで自分たちより不幸になれと願われている気がした。
きっと両親は子供に僻んでいるのだ。自分より不幸にならなければ、納得できないのだ。けれど、当時の私はそれに気づけず、守らなければならないはずの妹を
本当は私自身、守ってほしかったのだと思う。
ごめんなさいと叫ぶ度、どうして自分ばかりがこんな目に合うのかと悲しんだ。殴られる度、守られるはずの親の手で殴られる自分の身の上を、ひたすらに悲観した。
もう両親と顔を合わせるのも嫌で、部屋にこもっては猛勉強した。その方が自分に向けられる暴力は減る。自慢の長男でいることこそが、自分の身の安全だった。
その間、彼女はずっと庭にいて、使用人の子と自由に遊んでいるように見えた。
嫡男としてのプレッシャーや、兄としての役割がだんだん私の首を絞めていた。妹が羨ましく映り、嫌いでたまらなかった。
後から考えれば、彼女が外に出ないのは、私を置いていかないための配慮だったとわかるのに、その時の余裕のない私にはその配慮さえ憎むべき行動に受けとっていた。
「兄さん、勉強は終わりましたか?」
それでも愛は、私に寄り添おうとした。たった二人しかいない兄妹なのだから、大事にすればいいのに、今でも後悔ばかり。私は中学生に上がる頃には優しさのかけらも彼女にむけなくなっていた。
「だったらなんだ」
「兄さんと外へ行きたいのです」
「一人で行け」
そう突き放す度、「だったら行きません」と愛は頑なだった。心の中で愛がいなくなることを望んでいたくせに、置いていかれることに怯え切っているのを見透かされていたのかもしれない。
その年の春、愛と二人で縁側に座り、月を見た。夜闇に紛れて鳴く虫の声は、凛と澄んでどこまでも響き渡る。
月明かりに照らされる愛の肌は青白く反射し、彼女の白い肌をより際立たせる。赤い唇が時折震えるのを見て、泣いていることに気づいてそっと羽織っていたカーディガンをかけてやる。
「何もしてあげられなくて、ごめんな」
彼女はそういうと、壊れそうな笑顔で笑い、首を横に振るだけ。
私の服の裾を掴むその手は震えているのに、私はそれ以上の言葉をかけることはできない。
「兄さんは……私と血がつながっていなかったら、もう優しくはしてくれない?」
涙をいっぱいためて、一滴、とどめておけなくなった雫が頬を伝う。
「兄さんは、私をそれでも愛してくれる?」
彼女から向けられた情が、兄妹のそれではないことにその色っぽさから伝わり、さっと何かが冷めていくのを感じた。そしてそれとは逆に、頬は腫れたように熟れていた。
「あ……」
何か口にしなければならない。そう思えば思うほど何も口にできなくなる。
ただ彼女の流した涙が、赤く染まる目元が、震え壊れそうな笑顔が、ただ私の視線を奪い、鼓動を高鳴らせて、思考を奪う。
「今だけでいいの」
そういって、彼女の髪が揺れた瞬間、私と愛はキスをしていた。
彼女の唇は少し冷たくて擦り合わせ、そわせるほどに血の気の失せたその表情からこぼれだす欲に浮かされた色香に狂っていく。
舌を合わせ、口内をなめあい、抱き合うだけで罪悪感が膨れて苦しいのに、それは甘美だった。
ふいに聞こえた鳥の羽ばたく音で我に返り、唇を放すと引いた唾液の糸にさっと怖くなった。
私は黙ったまま、愛を引きはがすとただ一言。
「距離を置こう。お互い、冷静になろう」と乱暴に言い捨てその場を後にした。
空蝉を見ると、夏が乾いて枯れてゆくように、秋に移り変わる。次第に愛は、一人で家から出ていくようになっていった。
距離を置くべきだと思ったからなのか、それとも気まずさからかわからなかったが、なぜだか酷い裏切りに感じ、私は彼女を裂けるよう居なっていった。
それでも、彼女は私に何度も外で見つけた宝物を見せてきた。
紙風船、ビー玉、見たことのない丸い石。全部ガラクタだったのに、まるでそれを宝物のように大事に抱えては、きらきらした笑顔で、彼女は一つ一つを楽し気に説明した。
「兄さん、これは川で拾ったのです。透き通った水が冷たくて、キラキラしていたのです。外はきれいなんですね。……私、知りませんでした」
言葉の裏を返せば、ここはひどい場所だと暗に示していた。そこから出ていこうとしない私を、彼女は憐れんでいた。
憤りが積もっていく。
夏空が濃すぎる青色を示す。空が高く美しい日に、愛が蝉の抜け殻を見せてきた。
「兄さん、こんな虫がいるんですね。私、知らなかったんです」
そういって、興味深そうに眺め、私に差し出した時、虫嫌いな私は激昂して彼女を突き飛ばした。
「汚らしい。消えてしまえ」
それは思わず吐いた暴言だった。
彼女は箪笥の角で頭を打ち、血を流して病院に運ばれた。やってしまった後悔より、自分の人間性に傷がつくことばかり怯えていた。私は、とても醜かった。
妹のケガはひどく、頭蓋骨にひびが入り、手術になった。
手術後、頭に包帯を巻かれた彼女の見舞いに行ったけれど、「ごめんなさい。私が悪かったの」だけを告げ、一言だって私を責めなかった。それが自分に余計、罪悪の念を抱かせ、彼女に近づけなくなっていく。
本当に謝らなければならないのは、まぎれもなく私であり彼女ではない。けれど、その様子さえも私に罪悪感を受け付けるための演技に見えて、怒りが収まらなかった。
私は彼女に甘えて依存して、傷つけては自分を慰めていただけだ。
形だけの謝罪と形だけの見舞いをそそくさと済ませると、何事もない日常へと戻った。どちらかといえば、戻ったというより戻りたかったに近いのかもしれない。彼女がどんな思いで、何の意味を持って外のものを私に見せたがるのか、それすら考えるのが煩わしかった。
何気なく、彼女からもらった紙風船をふくらませ、ポンポンと叩いて遊んでみた。何度か叩くうちにあっけなく紙風船は割れてしまった。
紙風船がこんなにも脆いものだと知ったのは、その時が初めてだった。
私は妹に劣情を抱いている。その事実が自身を嫌悪させるのに、否定しようもない苦しみだけが、心を汚染している。恋と認めてしまえば、全て失う。今まで築き上げた兄としての思い出も全部。私は兄妹としての情と恋のはざまで揺れ、それら全部が私から妹を遠ざけていった。結局、私は妹が妹でなくなることが、一番怖かったのだ。
妹は退院をしたその日。家族は誰も彼女を出迎えなかった。使用人が彼女につきそって、玄関で声をあげた。
「お嬢様がおかえりです」
私は気づかれないように、玄関を覗いた。彼女はうめきながら俯き、足元に雫を落としていた。愛という名を持ちながら、誰にも愛を向けられない彼女に初めて同情に似た気持ちを持った。
けれど、それでも自分の保身に走らずにはいられない。私は結局、この家の冷徹な血を継いでいるのだ。
その日の深夜、トイレに向かう長い廊下で、彼女は亡霊になった。白い着物を着て顔が闇の中では見えないほど、墨で塗りつぶし、笑顔で私にこう聞いてきた。
「私、透明人間なの」
闇の中で白目と赤い口だけが浮かび上がって、くすくすと笑い声をあげる。その様子があまりにも異様で、その虚ろな黒目が穴にみえた。どこまでも落ちていく底のない穴。
ついに、妹が壊れてしまった。
人と関わるたび、ストレス性の呼吸困難を起こすほど、脆い精神と優しさを持っている彼女のことを、私はみないようにしていた。気づこうと思えばできたものを、自分のことにばかりかまけて、目を背け続けたのだ。
そうしてたった一人しかいない妹の異変に気づけなかった。
「……洗面所に行こう。顔を、洗おう」
そういって彼女の背中を押しても、その場に座り込んで独り言のようにぼやく。
「兄さんも私なんかいなくていいのでしょ? 消えてほしいって言ったものね」
何をどういえばいいか、わからない。それほどまでに私は妹に寄り添ってこなかった。もはやこの人物は俺の知っている愛ではない。取り返しのつかない絶望感だけ、心を火あぶりにする。
「ごめん、……本当に、ごめん。お前はいつも私を気にかけてくれたのに。どうして。……どうして」
涙をこぼして謝罪しても、視線が泳ぐ彼女の表情は変わらなかった。
ただうつろな目をして、私と視線が合わないようにしているだけ。私は彼女の世界からいなくなったのだ。
一夜明けると、愛は元の様子に戻っていた。
「おはようございます。兄さん」
そう明るく笑う彼女の様子は、本当にあの夜の出来事が嘘なのではないかと疑うほどだった。けれど、何かが違う。
何が違うのか聞かれれば言い惑うのだけれど、一言でいうなら、不気味だったのだ。
彼女はとてつもなく、笑うのが上手くなった。
それでも時折見せるあの時の——。半円を書いて形だけ笑ったような口元と、全然笑ってない暗い水面のような目を見るたび、彼女が戻ることはないような気がした。
酷い兄だと思う。私は取り返しのつかない恐怖に、どうすればいいかわからなくて、見ないふりをし続けた。そのうち妹が元に戻る。そんな希望にもならない願望を、縋るように信じ続けた。
その結果が、妹の失踪だった。
私は知っていた。気づいていた。
あの頭蓋骨に合った頭の傷はおそらく私がつけた妹、愛のものだと。
私はあれからずっとあの音楽室で彼を待っている。
彼に聞かなければならない。彼に妹の最期を、そして妹との間に合った出来事を、知らなければいけなかった。
あれから私はずっと彼と初めて会った音楽室で待っていた。誰にも邪魔されることのない、あの音楽室は掃除もされていないのか埃臭かった。けれど、夕日に照らされる埃が橙に煌めいて、家にいるよりずっと居心地がよかった。
愛はこんなきれいな世界があることを私に伝えたかったのだと思う。
そして私と二人で、息苦しさから抜けて、笑いたかったのだ。息を吸い込むたび、埃くささにむせそうになるが、キラキラと煌めく埃も、窓から差し込む光でさえ何もかも美しく見えた。
私はあれから家から離れて一人で暮らしている。一人で暮らし始めて知ったのは、世界の静けさと喧騒、そして何一つとっても美しさを秘めているということ。
死ぬ瞬間、誰にも看取られなくていい。一人でいいから、この美しさの中、息絶えたいと願うほどに、世界はこんなにも残酷で美しかった。
「どうして待っているの」
声をかけたのは、愛の幻覚。罪の意識からか、妹の失踪後から妹の幻覚が見えるようになっていた。
彼女は長い髪をなびかせる。ふわりと幻覚のはずの彼女から、優しい彼女の匂いがした気がした。
私の好きだった幼い頃の姿で、あふれる涙をぬぐわず、ひたすらに問いかける。
「兄さんは私の最期を知ってどうするつもりなの?」
私は泣いてほしくなくて、彼女の涙をぬぐいながらあきらめた笑顔を向ける。
「さぁ、どうするんだろうね」
そう口にしてから懺悔するように、私は愛の幻覚に聞いた。
「愛、知ってたか? 俺、お前に甘えていたのを」
口にすれば簡単なことなのに、それを本人に聞く勇気が私にはなかった。怯えているのだ、自分が悪いことを認め、自分の保身のためにただ誰かを犠牲にしたことが耐えがたく責めるのだ。
私は自分が悪いと認めたくないのに、罪悪感で死にそうだった。
彼女を照らす西日で泣き顔が、橙に染まってそのまま空気に交じって消えそうだった。
「……私だって兄さんなんか大嫌いだった。死んでほしかった。本当は大嫌いだった。見捨てられなかっただけ」
そう吐き捨てる愛の幻覚は自分を慰めるためだけの、責められて怒られて、何もかも八つ当たりされれば自分が少しでも楽になれるというだけの妄想だった。
いつも逃げ腰だ。
「愛、俺を殺してくれないか?」
そういった言葉を遮るように、音楽室の横開きのドアが開いた。
「やぁ、今日は彼女も一緒なんだね」
私はひどくやつれた顔をしていたと思う。西日に照らされる彼の表情は、憐れんでいるようだった。
「……お前は何がしたいんだ? 自分の罪悪感を紛らわせるためだけに愛を苦しめるのか?」
その通り過ぎて、力なく肯定する。
「……ああ」
彼は私の学ランの胸ぐらをつかむと「お前!」と激情を抑えきれないで叫んだ。彼の悲しみに暮れた瞳と視線が絡む。
はっと我に帰ったように彼は私から手を離した。
「……ひどい目だな」
わかりきったことだ。私が憔悴しているなんてことは。
「妹を愛していた。嘘じゃない。ただ大事にできなかった。優しさに甘え続けた。そうやって俺があの子を殺してしまったんだ」
「懺悔かよ」
彼は嘲笑う。
「いいや、違う。死因だよ。私の死因は罪悪感だ。あの子を殺したのが私なように、私に罪悪感を植え付け、私を殺すのもあの子だよ。それで終わる」
溝のような生臭さをさせながら、もうすでに死人の目をしている私に彼はさっと血の気が引いたように青くなる。
「……人のせいにするな。ましてや、あいつのせいになんか! ……そんなんで終わったら、愛が浮かばれないだろうが」
彼は嗄れた声で必死に言い切った。
彼と視線が噛み合う。彼の目は死んでいなかった。
「俺だって、俺だってどうしていいかわからないのに! お前が死のうが生きようがどうだっていい。でも! あいつのせいにするなよ」
私はひざを折り黙ったまま、長い時間をかけてから頷いた。それは自分が初めて利己的に了承した嘘だった。
私は何がどうあれ、死ぬつもりだった。それは償いなどではなく、どうしようもない自責の念からの逃避で、誰のためでもない。全部、自分のためだった。
彼はため息をついてから一冊のノートを手渡してきた。それがどういったものか、知らずにページを開けた。
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