白骸の恋

雨宮汐

第1話 成れの果て

 いまだ、その光景が脳裏から消えてくれない。

 西日に照らされる放課後の音楽室。薄暗がりで、わずかな橙の光が差し込むその空間に彼はいた。まだ幼さが残る顔立ちに似合わず、彼は大人びた表情をして木箱からパサパサに 乾ききったくすんだ色の頭蓋骨を大事そうに取り出す。

 触れれば崩れてしまいそうな頭蓋骨。その骨を愛おしそうに見つめる彼は、泣きそうな顔で微笑んでいる。

 彼は頭蓋骨をアップライトピアノの台にそっと置く。薄められた幸せそうな目じり。うっすらうるんで、零れ落ちそうな涙に思わず釘付けになる。

 少年は頬を染め、楽しげに頭蓋骨に話しかける。

 それはまるで、骨が生きてその会話に応答しているように。その姿は正気の沙汰ではない。気の狂った少年の姿でしかない。

 けれど、私もだ。亡くなった誰かを好きだった気持ちはどこへやればいいかわからない。だからこそその姿は今の自分に重なった。年端のいかないその少年の、壊れそうな狂い笑うその姿に涙が出た。

 彼は番を失くしたカナリアだ。彼の目を見てれば、正気であることはわかる。だって彼は泣きそうだから。見ないようにしている現実が、幸せという虚構を演じる姿が、あまりにも哀れで儚い。

 彼の瞳は揺らぐ幻想を見ている。自身が自覚すれば終了する夢を見ている。そして理解しているから、誰もそれを壊す者のいない空間で、独り息絶えようとしているのだ。

 刹那の夢。淡い橙の光が彼を照し、潤む瞳から涙が流れる。はっと夢から覚めたその表情が、骨に添えられる優しい手が、疎ましいほどに愛にあふれていた。

 涙声の悲痛さ。はにかみ目を細めくしゃっと無理に笑う不器用な表情。それら全てから、彼はこの人だったものを愛していたのだと、びりびりと空気に交じった悲しみが伝えてくる。些細な衝撃で死んでしまいそうだった。

 熱を濾したような熱い涙が頬を伝う。

 自分に涙を流す心が残っていたことに驚いた。でもそんなことどうだっていいほど、ただ、ただひたすらに、その光景は美しかった。

 彼女の遺骨に彼が湿った唇が押し付けた瞬間、我に返り私は音楽室のドアを急いで閉めた。見てはいけないものを見た気がして、背徳感が怖気と一緒に体を駆け上がった。

 中学生のキスなんて幼稚なものだ。けれど私が見たそれはあまりにも生々しかった。今見たものを消そうとしたけれど、まぶた裏に焼き付いて離れてくれない。なりふり構わずドアを閉め、走り出した。

 刺激の強い炭酸を一気に飲み干した時のような喉をせり上がる苦しさと、情事のような生々しい刺激に吐きそうだった。心臓がバクバクと音を立てて苦しめてくる。

 脳裏に焼き付いたあのキスから、私はもう意識をそらすことができなかった。



 次の日の放課後も私は音楽室に向かった。ほぼ無意識と言っていい。初めてみた鮮烈なキスシーンが焼き付いて取れず、初めて女性を知ったあとの男のように狂っていた。欲に憑りつかれてしまう、艶めかしいキスに。

 性欲への興味に嫌悪を抱きながらも、もう一度、あの光景を見たかった。自分が浅はかで欲深い人間に思えた。

 数センチだけ、隙間を開けて覗こうとした瞬間、心臓が口から飛び出るかと思った。白いきれいなシャレコウベが私を隙間から覗いていた。

「うわっ」

 私は大げさに声をあげて驚き、転ぶ。身構える隙も与えられずに驚かされ、ぺったりと尻もちをついた。

 隙間の空いたドアが大きく開いたかと思ったら、今度はきれいな骨格標本の頭蓋骨を持ったあの少年が私を見て笑っていた。

「……なに、覗いてんの?」

 見られていたことに、その時初めて気づいた。いや、あの光景に気を取られ過ぎていた。当たり前だ。私はドアを思い切り閉めて逃げ出したんだから、気づかないわけがないのだ。

 途端に顔に熱が集まるのを感じる。生々しいあのキスを見てしまった罪悪感から、思わず視線をそらしたが、それでもやっぱり気になって聞いた。

「……見ていたのはすまない。でも、あの骨の彼女はどうした?」

 指差ししたのはきれいな骨格標本の頭蓋骨。あの骨の彼女ではない。彼は少し怪訝な表情を浮かべる。

「……は?」

 深く刻まれる眉間のしわに恐怖心を抱きつつも、もう一度問いかけた。

「それどう見ても作り物だろ。昨日の彼女は隠したのか?」

「……いや、なんであの骨が女だって思ったの?」

「……えっと」

 どうごまかそうかと、頭を巡らし答えた。

「……形が男性の頭蓋骨じゃなかったから」

 まだ幼い少年は、骨格標本をピアノの上に置いて私の視線の高さまでしゃがみ込んだ。

「あんなボロボロのガイコツみて、よく性別まで判別できたな」

 心底感心しているような、それでいて少し浮足立つように彼は告げると、彼ははっきりとこういった。

「……恋人との逢瀬を見せる趣味はない。あんたが見ているのは気づいてたから驚かせようと思って、理科室からあれを借りてきたんだよ」

 私は何も言えなくなり、ただ素直に思ったことを言った。

「……あの彼女とは、恋人だったのか?」

 瞬時に彼は怒りを露にする。獰猛な肉食獣のような視線で貫かれ、迫力に押され、思わず言葉が途切れる。

「いう必要あるか」

 視線は鋭いまま。けれど、その鋭く睨む眼光の何処かに脆さを感じる。壊れてしまいそうなガラス細工を抱えているような不安げな少年の瞳。私はこの目を見たことがあった。この目は祖父が死んだ時、祖母が見せた目。この世のすべてに裏切られたと心酔しんすいし、落ちぶれ見捨てられた、全てを嫌いになるときの人間の目だ。

 思わず、生唾を飲み込んだ。

「……配慮がなかった。申し訳ない」

 少年は少し気まずそうに視線を外しながら、「わかってもらおうと思ってないから、謝らないでいいよ」とバツが悪そうに言う。

「……恋人と死んでも一緒なのはいいな」

 すごく無遠慮なことを言ったと思う。けれど、少年は怒らずいった。

「……ずっと一緒だって約束したから。死んでも一緒なんだよ」

 窓の外を眺め答えた少年の寂しそうな目が、全てを物語る。寂しいのに、幸せそうな表情。彼の彼女に恋焦がれる様は、ろうそくの明かりに群がる蛾のようで、無様で独りよがりだ。 けれど何もよりも共感できた。

 ただ誰かをひたすらに愛して、残されて恋焦がれて、現実を否定し、亡骸を離そうとせず、夢から覚めることを拒否し続ける。

 そんなのは辛いに決まっている。そしてこの先、彼は愛がゆえに苦しみ続ける未来しか待っていない。それが愛ゆえの結末。本当にそれじゃ、あまりに救いがない。

 寂しさに泣き、悲しみに震え、ぬくもりに焦がれ、そしてもう二度と彼女に会うことは叶わない事実を知り、永遠の大きさにつぶれる。その生の中で朽ちるまで繰り返す。

 幸せだったはずの記憶さえ切なくも自らの首を絞める縄となり、愛が故にその責め苦に耐えざるおえない。それでも、どうしようもないのだ。優しかった笑顔も、肌に触れた時の体温も、消そうとしても残り香は消えない。いつまでも残影として刻まれる。

 間違っているとか正しいとか、そういう類の話ではない。

 一種の呪いなのだ、愛は。

 折り合いのつかない心を、正しいという枠にはめたがる。不安で怖くて悲しくてどうしようもないから、正しいことだって自分を騙して、折り合いをつけようとする。

 お願いだから、それを他人にまで強制しないでくれと、何度も思ったか知れない。したいようにするしか、結局のところ自分のできることなどない。

 それでもそれほど人を愛した彼が、どこかで羨ましかった。

「……私は愛を知らないから、羨ましい」

 妬んだ目で眺めると、彼は不思議そうに問いかける。

「……疑問なんだが、どうして男のくせに私っていうんだ?」

「ああ、家が名家でね。そこのところ厳しいんだ。背筋を正せ、言葉遣いを正せ、優等生でいろってね。まだ中学生なのに、私って逆に浮いて嫌なんだがな」

 苦笑する私に彼は少し興味を持ったようだった。

「なぁ、私も一度だけ、人を愛したことがあるよ」

 彼は黙ったまま聞いていた。

「たった一人だけ……。恋とは違うんだけどね」

 そういった言葉に何を思ったのか、彼は一言「そう」と頷くだけ。

「ねぇ、キスってどんな感じなんだ?」

 そう聞いた瞬間、彼は目を見開き、せき込んだ。

「大丈夫か?」

「……いや、だってお前」

 頬を染めて目をぱちくりさせる彼に私はそっと背中を叩いてやった。

「そんなに慌てなくても……」

「思春期なんだよ。気まずいからその手の話をさせないでくれ」

 そう言い放った少年は赤くなった顔を押さえながら、深くため息を吐く。さっきまであんなに艶めかしいキスをしておいて、どんだけ初心な反応をするのだろう。

「お前、もしかして彼女が生きていた時にはしてない……?」

 恐る恐る聞くと、彼は怒ったように俺の脇腹にケリを入れた。あまりの力強さに少しうめき声が漏れる。

「……してないのか?」

「してないが! 悪いのか?」

 怒り混じりの声に俺は思わず、声をあげて笑った。まだ幼い彼が年相応の少年に見えたのもあった。けれどそれ以上に、彼との距離が近くなった気がした。

「……それだけ。好きだったんだよ」

 小さく呟いたその声に、身が裂かれる思いだった。

「それじゃ、亡くなった時、悲しかっただろう」

 虚空を見上げた彼の目は、うつろで生気がなく、その悲しみをその瞳だけで訴えるようだった。

「別に」

 言葉ではそういうのに、それでも彼の瞳は沈んだ色を映し出し、希望も何も見いだせない死人の目と同じだった。励ましにもならないのに、私は口にせずにはいられなかった。

「……無神経かもしれないけど。それでも、これからはずっと一緒なんだな。羨ましいよ」

 視線をそらすために遠くを眺める私の目を、彼は少し不思議そうに見ていた。

「……お前の大事な人は死んだのか?」

「たぶんね」

 そういうと、怪訝な表情を浮かべて彼は「たぶん?」と繰り返す。

「失踪したんだよ。どこにいるかわからない。でも……死んでるんだろうなって思う」

 彼は俯いて視線をそらした。何か触れてはいけないことなのかと思案しているようにも見えた。私はそんな彼の様子を無視したまま話し続ける。

「どうしてかな? 壊れそうだった。いつ死んでもおかしくないほど、心がボロボロだった。そんなに追い詰められるまでに、私はね。大事にできなかったから、後悔しか残らなかったよ。君はどうなんだ?」

 夕闇が侵食するように音楽室を黒く染めようとした頃合いを見て、彼は一言。「帰る」とだけ言って音楽室を出た。なぜだか彼はまたここに来る気がした。


 音楽室につけられた先生の私物の風鈴が、ちりんちりんと響きなびく。

 性懲りもなく私はのぞき見をしていた。

 彼はうつろな目で、うわ言のような歌を口ずさみながら、その手の中には彼女の遺骨を抱いる。時折、抱きしめるしぐさで彼女の遺骨にキスをする。

 彼女が応答しているように舌を這わせ、嬲るように歯列をなぞり、愛を伝えるその姿。見ているだけで体が熱を帯び、オーバーヒートしそうだ。

 そしてキスをするたびに彼は、はっとして涙をボロボロと流す。

 自分の行いを悔いるように。

「これじゃ、呪いみたいだ」

 圧倒され、縫い付けられた口がそっと口にした。

 それでも彼らの絆が、切なくも羨ましかった。

「朏くん」

 こそこそとかがんでのぞく音楽室の扉の前。

 声をかけられて振り返ると、委員会で一緒の井本という女子が不思議そうに私に声をかけていた。

「なに……見てるの?」

 私は人差し指を立ててしーっと小声を言った。

「キスシーン」

 聞こえないほど小さな声で、私はそういうと彼女の手を引いてそっとその場から離れた。

 誰もいない放課後の廊下に足音が二つ、響きわたる。井本は黙ったまま、手を引く俺に従った。小走りの足を止め、彼女の方へ振り返るとにんまりと半円を書いたように口元だけ笑ってみせる。

 井本の赤い唇を噛みちぎり、舌を沿わせ、咀嚼して飲み込んでしまいたいと熱に浮かされた私は欲望をたぎらせた。

「井本さんは、付き合ってる人いる?」

 私の熱っぽい視線に充てられたのか、井本は頬を赤く染めて、黙ったまま首を横に振る。潤んだその目が怯えているけれど、欲に濡れて色っぽく、美しい。

 女の顔をしている。青ざめる唇、硬直したようなぎこちない動き、そっと頬を沿わせる手を彼に見立てて、彼女に見立てて。

「キスの練習させて」と言って無遠慮に彼女に唇を重ねた。

 押し付けた唇の感触は柔く、なめらかな唇をなぞるように擦り合わせる。

口の隙間に舌をねじ込み、湿った口の中をなめるように味わった。

 舌を舌で這わせ、合わせるたびぞくぞくと、背筋が震える。そっと涙ぐむその彼女の瞳に見える、欲情の熱さに同調して自分の欲が沸くのを感じる。けれどやはり、彼らとは少しも同じではなかった。

 頬をほてらせ、息が上がる井本の顔を見て頬をそっと撫でる。

私は静かに悲しく笑うと私は彼女の耳元で「内緒にして」とだけ言ってその場を後にした。

 愛は呪いだと思う。けれど、どうしてこんなにあの熱情に焦がれてしまうのか、私にはわからないのだ。

 何か一つでも気持ちがわかれば、私でもいなくなった妹の気持ちがわかるかもしれないと、思わずにはいられないのに。

 自分にはその尊さに手が届かない。

 懺悔するなら、私は妹をそういう目を見ていたのかもしれない。私はあの遺骨になら、彼と同じような感情を抱けると妄信している。

 思い出してみる。記憶におぼろげな彼女の残り香をたどって、してはいけない想像をした。もう届かない誰かに恋焦がれる気持ちを失踪した妹に重ねて、分かったふりをした。


 また音楽室で、彼の制服から桜の花弁が滑り降りるのを見ていた。いくら見ても変わらない彼らの関係に水を差す気になったのは、憐憫からだった。

「もうやめろよ」

 彼が開いた口を眺めながらいう。

「なにが?」

「俺たちを見るのを」

 じっとりと陰湿な視線を向け、私は彼を見て鼻で笑う。

「じゃ、お前もやめろよ」

「なにをだよ」

「泣いて縋るのを」

 言葉にした瞬間、冷たい刃先を首筋に突き立てられたような鋭い殺気を向けられた。

「悲しい、はな。かさを増すほど剝がれなくなるんだよ。思い出は汚れないから、心地いいんだ。心地いいから自分から切り離せなくなるんだよ」

 そういった瞬間、俺は彼に殴られた。

「向き合わなかったやつはいつもそうだ。見ないふりするやつはいつだってそうなんだ!」

 彼は私の胸ぐらをつかんで叫ぶ。純粋なその感情を映す目に嫉妬する。きれいな感情だ。不純物なんか一つだって浮かんでいない。その思いは全部、愛に向けられている。

「……何の話だよ」

「お前が、愛の兄貴だってわかってんだよ!」

 おかしくなって腹を抱えて笑いだす。それは全部噛み合わない空虚さを孕んだ空笑いだった。

「なんだ。わかっていたのか」

「もうこれ以上、苦しめるのはやめろよ。愛をもう、自由にしてやれよ」

 私はそういって涙を流す彼を殴った。

「それでも愛は俺の妹なんだよ。切れないんだ! 罪悪感も何もかも! 断てないんだよ。お前と一緒で」

 そういった瞬間、彼は大事そうに愛の遺骨を抱えて音楽室を出ていった。

 去っていく彼を見送りながら、私は妹の思い出を思い出していた。

 白磁のような肌に、血色のいい赤い頬、長い髪をなびかせていつも笑顔で私を迎えてくれた少女は、もういないのに。

 涙が出た。それが酷く痛いのに、私にはもうそれが愛情なのかすらの区別ができない。

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