前日譚第3話:大往生と、神界への殴り込み


 平成の終わり。  私は白い病室のベッドで、静かにその時を待っていた。


 窓の外は快晴。  あの昭和二十年の夏と同じ、抜け落ちるような青空だ。  けれど、今の私に絶望はない。


「……おばあちゃん」


 ベッドの脇で、小学生になった**零(レイ)**が、私の手を強く握りしめている。  泣き虫だったこの子も、今では涙を堪えて、気丈に私を見つめていた。  その瞳は、黒曜石のように強く、美しい。


「……泣くんじゃないよ、レイ」  酸素マスクの下で、私は掠れた声を絞り出した。 「人間、いつかは死ぬんだ。……アタシは十分に生きた。いい人生だったよ」


 嘘じゃない。  多くの戦友を見送り、地獄を生き延びたけれど。  最後にこの子の成長を見届けられたのだから、お釣りが来る。


「……レイ。空は、永遠だ」  私は、窓の向こうの蒼穹を指差した。 「アタシがいなくなっても、空はずっと繋がってる。……いつだって、上からお前を見守っているからね」


「……うん。うん……!」  レイが何度も頷く。


 ああ、いい子だ。  意識が遠のいていく。  心電図の電子音が、遠くで平坦な音に変わる。  私は九十余年の生涯を、穏やかなまどろみの中で閉じた――はずだった。


 ***


「――次の方。整理番号四〇二番、貴志姫乃様」


 不意に名前を呼ばれ、私は目を開けた。  そこは、無機質な灰色のロビーだった。  目の前には、役所の窓口のようなカウンターがあり、天使の輪をつけた事務員が座っている。


「……ここは?」 「冥府の入国管理局です。貴志様、貴女の人生の査定は完了しております」


 事務員は淡々と書類を読み上げた。 「戦時における献身的な防衛活動。戦後の慈善事業。そして家族への愛。……素晴らしいスコアです。特Aランクの『天国行き』、もしくは『平和な来世への転生』が選べますが?」


 天国。安息。  それは、戦い続けた魂にとって最高の報酬のはずだった。


 だが――その時。  私の耳に、微かな「ノイズ」が聞こえた。


 ズズズズズ……。  空間が歪むような、不快な振動音。  それは冥府のさらに奥底、次元の狭間から響いてくる。


「……おい。今の音はなんだい?」 「音? ああ、最近観測されている『次元震』ですね。異世界の勢力が、こちらの世界に干渉しようとしているようですが……我々管理側には関係のないことです」


 事務員は無関心に肩をすくめた。  関係ない?  ふざけるな。その震源地は――現世の、日本じゃないか。


 私の脳裏に、レイの顔が浮かんだ。  あの子が生きる世界に、魔の手が伸びようとしている。  それなのに、私は天国で茶を啜っていろと言うのか?


「……断るよ」  私は書類を叩き落とした。


「は?」 「天国なんて退屈な場所、アタシには似合わないね。……アタシを雇いな」


 私は事務員の胸ぐらを掴み、かつての「飛行隊長」の顔で凄んだ。


「その異世界とやらが攻めてくるなら、迎撃部隊が必要だろう? アタシが指揮を執ってやる。……曾孫(レイ)の未来を守る『守護神』になってやるよ!」


 事務員が呆気にとられる。  すると、天井から荘厳な光が降り注ぎ、厳格な声が響いた。


『――面白い。その魂の在り方、実に猛々しい』


「か、管理者様!?」  事務員が平伏する。


『貴志姫乃。汝に、神界と冥府の狭間を守護する権限を与える。……だが、その老体では戦えまい?』


「ハンッ! 心意気一つでどうにでもなるさ!」


 私が啖呵を切ると、豪奢な十二単と軍服を融合させた「神衣(カムイ)」が、光の中から具現化し、私の体を包み込む。  全盛期の姿を取り戻した私は、長い袖を優雅に翻し、ニヤリと不敵に笑ってみせた。


 その姿を見た管理者の声が、どこか満足げに響く。


『行け、戦乙女よ。汝の愛する者たちを導いてみせよ』


 ***


 冥府の最奥。  私は自らの領域として、懐かしい「日本庭園」を作り出した。  ここを最前線基地とする。


 私は縁側に腰掛け、金色の煙管(キセル)に火をつけた。  紫煙の向こう、現世の様子をモニターに映し出す。


 レイは、泣き止んでいた。  私の遺影の前で、しっかりと前を向いて手を合わせている。


「……待ってな、レイ」


 いずれ、その世界は地獄になる。  お前も、その運命に巻き込まれて命を落とすかもしれない。  でも、心配するな。


「お前が落ちてきたら、アタシが一番に拾ってやる。……そして、最強の翼を授けてやるからね」


 私は煙を長く吐き出し、空を見上げた。  戦いは終わらない。  けれど、今度の戦いは「消費」じゃない。  愛する曾孫と、未来を掴み取るための「反撃」の準備だ。


「さあ、忙しくなるよ。――『冥府航空隊』、**開隊(かいたい)**だ」

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蒼穹の女神・前日譚 ~翼を畳んだ撃墜王と、最期の空~ 石橋凛 @Tialys

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