前日譚第2話:畳まれた翼と、小さき手
昭和二十年、八月十五日。 空は抜け落ちるほどに青く、入道雲が湧き上がっていた。
玉音放送の雑音が途切れた瞬間、滑走路を支配していた喧騒が消えた。 整備兵も、搭乗員も、誰もがその場に崩れ落ち、あるいは空を見上げて涙を流していた。
終わったのだ。 私は愛機のプロペラに触れ、熱を持ったエンジンの感触を確かめた。 もう、飛ばなくていい。 もう、誰も死なせなくていい。
「……少佐」 兵曹長が、腫れ上がった目で私を見た。 「俺たちは、どうすればいいんでしょうか。死に損ないました」
「……生きるんだよ」 私は空を見上げたまま、乾いた声で答えた。 「死んでいったあの子たちの分も、泥水をすすってでも生きるんだ。……それが、生き残った指揮官(アタシたち)の罰だ」
私はその日、飛行服を脱いだ。 『蒼穹の乙女』という虚像も、エース・パイロットとしての栄光も、すべて焼却炉に放り込んだ。 残ったのは、貴志姫乃という、一人の無力な女だけだった。
***
それからの数十年は、贖罪のような日々だった。 焼け野原からビルが建ち、高度経済成長の波が押し寄せ、日本は豊かになった。
私は貴志家の当主として家を守り、婿をとり、子を育てた。 空のことは忘れたフリをした。 テレビでブルーインパルスが飛ぶ映像が流れても、私はチャンネルを変えた。 私にとって空は、青色ではない。 友の血と、敵のオイルで汚れた、どす黒い墓場だったからだ。
けれど――運命は皮肉だ。
***
平成某年。夏。 貴志家の縁側で、九十歳を過ぎた私は、蝉時雨を聞いていた。
「おばあちゃん、見てー! 飛行機!」
私の膝の上で、まだ五歳になったばかりの曾孫――**零(レイ)**が、空を指差してはしゃいでいる。 遥か上空、白い飛行機雲が一本、青空を切り裂いていた。
「……ああ。飛行機だねぇ」 私は渋い茶を啜りながら、曖昧に相槌を打つ。
レイは、私によく似ていた。 意志の強い黒曜石の瞳。黒髪の姫カット。 そして何より――空への憧れを隠さない、その無垢な魂が。
「ねえ、おばあちゃん。レイね、大きくなったらパイロットになりたい!」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が冷たく縮み上がった。 フラッシュバックする記憶。 燃え落ちる零戦。無線越しに「お母さん」と叫んで死んだ少年の声。
「……ダメだよ、レイ」 私は思わず、レイの小さな肩を強く掴んでしまった。 「空はいけない。あそこは、人が行っていい場所じゃないんだ」
「いたっ……おばあちゃん、痛いよぉ」 レイが涙目になる。 ハッとして手を離す。小さな腕に、私の指の跡が赤く残っていた。
「……ごめんよ。ごめん……」 私はレイを抱きしめた。 老いた私の体から、涙が溢れて止まらなかった。
守らなければ。 この子だけは。 あんな地獄とは無縁の、幸せな世界で生きてほしい。 それが、多くの若者を死なせた私が、この平和な時代に生き残ってしまった理由なのだから。
「おばあちゃん、泣かないで? レイ、いい子にするから」 レイが小さな手で、私の皺だらけの頬を拭ってくれる。 その手の温かさが、凍りついていた私の記憶を溶かしていく。
ふと、気づいた。 かつて私が命がけで守ろうとした「未来」とは、国体でも名誉でもなく、この柔らかな手のひらのことだったのではないか。
「……そうだね。レイはいい子だ」
私はレイの頭を撫でた。 空を見上げる。 そこにあるのは、かつての戦場ではない。 平和で、どこまでも美しい蒼穹だった。
(ああ、みんな。聞こえるかい?)
私は心の中で、散っていった部下たちに語りかけた。
(アタシの人生は、苦しかったよ。……でも、無駄じゃなかった)
この子の笑顔を守るためなら、アタシは何度だって地獄に落ちよう。 英雄なんて肩書きはいらない。 ただの「おばあちゃん」として、この命が尽きるまで、この子を見守り続けよう。
「……レイ。強くなるんだよ」 「うん! レイ、強くなる!」
無邪気に笑う曾孫を見ながら、私は密かに誓った。 もし、この子の未来を脅かすものがあれば――その時は、老骨に鞭打ってでも、アタシが叩き潰してやる。
それが、元撃墜王の最後の戦いだと知らずに。
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