蒼穹の女神・前日譚 ~翼を畳んだ撃墜王と、最期の空~
石橋凛
前日譚第1話:消費される偶像(アイドル)と、消費する指揮官
昭和二十年、八月。 本土の空は、焦げた鉄とオイルの臭いで満ちていた。
高度八千メートル。 希薄な酸素の中、私の愛機――零式艦上戦闘機五二型は、悲鳴のようなエンジン音を上げていた。
「――二番機、突出するな! 高度をとれ!」
酸素マスク越しに叫ぶが、無線機はノイズを吐き出すばかりだ。 視界の前方、銀色の巨大な壁が迫る。 B-29(超空の要塞)。 四発のエンジンを持つその怪物は、全身からハリネズミのように機銃弾をばら撒いている。
『隊長! 見ていてください! 自分は……ッ!』
若すぎる声が、通信機から聞こえた。 予科練を出たばかりの、まだ十六歳の少年兵だ。 彼は私の制止を聞かず、無謀にもB-29の編隊へ直進した。
「バカ者が……戻れッ!」
だが、その声は届かなかった。 敵の濃密な弾幕に捕らえられた零戦は、紙細工のように翼をへし折られる。 機体が炎に包まれた瞬間、無線の向こうで少年の「軍人としての言葉」が途切れ――。
『――う、うわぁぁぁ! お母さぁぁぁんッ!』
幼い悲鳴と共に、彼は火だるまになって墜ちていった。 敵機に傷一つつけられず。ただ、無駄に。
「くっ……!」
私は操縦桿を左に叩き込み、愛機をひねり込んだ。 弾幕のわずかな隙間を、針の穴を通すようにすり抜ける。 敵の機銃手が私を捉えるより早く、主翼の20mm機銃を叩き込む。
ドォン! B-29の右翼エンジンから黒煙が噴き出す。 巨体が傾き、編隊から脱落していく。
撃墜。 だが、勝利の味などしなかった。 風防越しに見下ろす空には、私の部下だった少年たちが、黒い煤(すす)となって消えていくのが見えたからだ。
***
基地の滑走路にタイヤが接地した瞬間、私は「軍人」から「偶像」へと引き戻された。
「お帰りなさいませ、貴志少佐!」 「やりましたな『蒼穹の乙女』! 本日も戦果を!」
整備兵たちに混じり、カメラを持った報道班員たちが駆け寄ってくる。 彼らは機体の弾痕を見て顔をしかめることもなく、ただ被写体としての私にレンズを向けた。
名門・貴志家の令嬢にして、零戦のエース・パイロット。 敗色濃厚なこの国において、私は国民の戦意高揚のための、都合のいい「女神」だった。
「少佐、笑顔を! 国民が安心します!」 「勇ましいポーズをお願いします! 『本土は私が護る』と!」
フラッシュが焚かれる。 それは敵の対空砲火よりも眩しく、私の神経を逆撫でした。
(……安心? ふざけるな)
私の後ろで、整備兵たちが泣きながらバケツで水を撒いているのが見えないのか。 帰ってこなかった二番機、三番機の駐機スペースが、空っぽのままだというのに。 あの子たちは最期に母親を呼んで死んだのだぞ。
吐き気を堪え、私は唇の端を吊り上げた。 完璧な、貴志家の令嬢としての笑み。
「ええ。皇国の空は、私が護り抜いてみせますわ」
カメラのシャッター音が、乾いた銃声のように響いた。
***
その夜。飛行隊長室。 粗悪なインクと湿った紙の臭いが充満する部屋で、私はペンを走らせていた。
『……ご子息の勇猛果敢な突撃により、敵機は……』
戦死状況報告書。そして、遺族への手紙。 今日死なせた少年の母親への手紙を書くのは、これで何度目だろうか。 勇猛果敢。そんなものは嘘だ。 彼はただ、恐怖で泣き叫びながら死んだ。 けれど、私は彼を「英雄」として記述し、死の意味を捏造しなければならない。
「……隊長。コーヒーが入りました」
ノックと共に、年若い兵曹長が入ってきた。 彼は私の古くからの列機(ウィングマン)だが、先日の空戦で片目を負傷し、今は地上勤務に回っている。 差し出されたのは、大豆を焦がしただけの代用コーヒーだ。
「……すまないね」 泥のような液体を口に含む。苦い。
「本部から連絡がありました。……明日の迎撃に、補充のパイロットが到着すると」 「……またかい」
私はペンを置いた。 指先が、微かに震えている。
「今度はどこの学生だ? 飛行時間は? 離着陸はできるのか?」 「……予科練を短縮卒業したばかりの、十五歳です。飛行時間は五十時間にも満たないかと」
絶望的な数字だった。 そんな子供を、あのB-29の弾幕の中に放り込むのか。 それは作戦ではない。処刑だ。
「……あの子たちは、『蒼穹の乙女』の下で戦えることを誇りに思って志願してきたそうです」
兵曹長の言葉が、ナイフのように胸に刺さった。
私の名前が。 作られた英雄の虚像が。 未来ある若者たちを、死地へと誘(いざな)っている。
私は英雄じゃない。 若者を喰らって生き延びる、ただの死神だ。
「……帰してやりたいね」 私はポツリと漏らした。 「学校へ。家族の元へ。……こんな鉄の棺桶の中じゃなく、畳の上で死なせてやりたいよ」
兵曹長は何も言わず、ただ敬礼をした。
***
翌朝。 けたたましい空襲警報が鳴り響く。
私は飛行服に袖を通し、愛機へと走った。 まだあどけない顔をした新兵たちが、震える手で敬礼を送ってくる。 彼らの目は、私を――「女神」を見る目で輝いていた。
私は彼らの期待に応えなければならない。 たとえそれが、地獄への先導だとしても。
私は操縦席に飛び乗り、スロットルを開いた。 栄エンジンの轟音が、迷いを吹き飛ばすように唸りを上げる。
「総員、離陸ッ!」
無線機越しに、私は精一杯の虚勢を張って怒鳴った。
「アタシの視界から出るんじゃないよ! 一機でも多く帰す。……それが今日の勝利条件だ!」
翼を振るわせ、私たちは再び死の空へと舞い上がる。 いつか来る「終わり」の日まで、この罪を背負い続けて飛ぶために。
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