第16話「潮騒の戦士たち」

朝の潮風にかすかな波音が混じる。

甲板の向こうでは、低く昇った太陽が艦影を長く引き延ばしていた。


秀樹は、朝の対空砲の清掃を終え、階段の踊り場で足を上にかける。

両腕を肩幅よりやや広く取り、無言のまま身体を沈め、押し上げる――海軍式腕立て伏せ。

号令もなく、頼るのは自分の呼吸だけだ。


汗が一滴、鉄板に落ちた。


そのとき、足音が近づく。

当直明けの誠だ。目の下にうっすら影を残しながらも、背筋は崩れていない。


「……朝から元気だな。あんまり気負いすぎるなよ、秀樹」


「このくらいやらないと、お前には勝てん。そっちこそ、夜勤明けとは運が悪いな」


誠は鼻で小さく笑った。


「お前の言う“運”も、実力のうちってやつだ。まあ、当直前にしっかり寝といたからな。いつもより調子はいい」


「相変わらずの体力だな。調子悪かったら、“熊胆”の薬、分けてやる。いつでも言ってくれ」


誠は言葉に詰まる。


「あれか……確かに効くが、マタギの家の俺と違って、ちょっときつい」


秀樹は口元だけで笑い、腕立てを終えた。

階段の上から見える海は、朝日に照らされて金色に揺れている。


「さて、時間だ。行くか、誠」


「腕が鳴るわい。俺とやる前に負けるなよ」


「余計なお世話だ」


二人は無言で甲板を進む。

少し線の細い若い兵士が声をかけた。


「村上さん、佐飛さん、頑張ってください。ご武運を」


「ああ、まかせろ」


二人は後部甲板のカタパルト脇を通る。

すでに軽く人だかりができ、整然と列ができていた。


「これより、羽黒恒例・武術訓練相撲会を執り行う!」


岩谷が、防爆マットで即席に作られた土俵の中央から声高く宣言する。

分かれの号令とともに、見物の兵たちは周囲に移動し、出番の者は列に並ぶ。


今日は、列がいつもより長い。

ガンさんが勝った部隊には酒保から景品が出る

――その噂が兵たちを引き寄せていた。


人数が多いため、今回はトーナメント戦。


柔道二段の腕前を持つ誠は、無理せず危なげなく勝ち進む。

相手の力を流し、組めば終わりだ。


秀樹は合気道初段。

自分より大きな相手も、正面から受けず、流し、いなしながら勝ち上がる。


土俵の周りには人垣が厚くなる。


「また誠さんだな」

「ああ、組まれたら終わりだ」


一方で、ざわめきも混じる。


「……あの佐飛って、あんな動きだったか?」


派手な投げも押し出しもない。

だが気づけば、相手は土俵の外にいる。


「なんだ、今の……」


見ていた兵たちが首を傾げる。

秀樹は息一つ乱さず土俵を下りる。

視線は前だけ。歓声にも野次にも反応しない。


誠は列の向こうから、その様子を静かに見つめる。


「……最後だな」


土俵の上に立ったのは、誠と秀樹だった。


「待てい。せっかくの二人だ。相撲ではなく、互いの技を存分に試してみろ」


岩谷は静かに言い放つ。


「誠は柔道だ。組んで相手の腕か足を取れば勝ちとする」

「秀樹は技を当てれば勝ち。ただし――」


一拍置く。


「当ててから一秒以内につかまれなければ、秀樹の勝ちとする」


岩谷は秀樹に視線を向ける。


「……お前の技は合気道にしては切れすぎる。怪我はさせるな」


土俵の周囲は静まり返る。

冗談も冷やかしもない。


誠は軽く膝を落とし、重心を低くする。

構えは柔道そのものだが、力は抜けている。

視線は秀樹の肩、腰、足――全体を均等に捉える。


(右から来ても、左から来ても、取れる)


秀樹は正面から立ち、距離を測る。

息は整い、踏み込みはわずかに深い。


(読まれている)


何度も誠の動きを見てきたから、わかっていた。


岩谷の手がすっと上がる。


「――始め!」


誠が前に出る。一歩、組みに来る。


その瞬間、秀樹は左右どちらにも動かず、身体を沈め、足元へ――飛び込む。


誠の視界が、一瞬だけ下へ引きずられる。


(下……!?)


次の瞬間、秀樹の掌が誠の上体を下から打ち上げた。


鈍い衝撃。呼吸が一拍止まる。


「――っ!」


誠は即座に反応する。

腕を伸ばせば掴める距離だ。だが――


――〇・一秒。


指は、一瞬動かなかった。

そして、その手は空を切った。


「――一本。佐飛秀樹」


場内にどっと歓声が上がる。


土俵の中央で二人は短く礼を交わし、声を落として言葉を交わす。


「掴めたはずだ、誠」

「夜勤明けでな。一瞬、遅れた……これも運だ」

「お前らしい答えだ」


誠はわずかに口端を上げた。


土俵を下りた秀樹を、二番対空砲隊の面々が迎える。


肩を叩く者、無言で親指を立てる者。

いつもは冗談ばかりの連中も、今日は余計なことを言わない。


秀樹は振り返り、土俵中央の誠に深く一礼した。


岩谷は、土俵を降りる誠の背に短く声をかけた。


「……お前は、いいのか」


誠は一瞬立ち止まり、苦笑いを浮かべて親指で秀樹の方を示す。


その先では、二番対空砲隊の連中が秀樹を囲んでいた。


「なあ秀樹、さっきの技は何だ?合気道って感じじゃなかったぞ」

「ああ、あれか。――俺のとっておきだ」


誰かが声を張り上げる。


「よし決まりだ!第二対空砲部隊は、今日から全員“死神部隊”だ!相手に恐怖と絶望を刻め」


「勘弁してくれ。対空砲内が死神だらけじゃ、俺たちまで落ち着かねえ」

「わはは、違いねえ!」


甲板に笑い声が広がる。やはり冗談ばかりだ


岩谷は険しかった表情をわずかに緩め、静かに呟いた。


「……そういうことか。誠らしいな」


土俵を去る誠の背中は、なぜか誇らしげに見えた。


そしてその日から――

後部第二対空砲の撃墜マークは、鎌を手にしたカエルの印へと変わった。

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