第10話 「名もなき白き花」
西の空には、雲の縁だけが金色に染まりはじめ、空全体はまだ青く澄んでいた。
「妻河病院前、妻河駅はお降りです。お忘れ物にご注意ください」
車内アナウンスが鳴る。
村上家の最寄りのバス停で二人は下車した。
「帰ってきちゃったね、航。ごめんね、送ってもらっちゃって」
「しばらく一緒に歩きたかったし、ついでに駅前で文房具ほしかったから気にすんなって」
夕方の静かな道を歩き、やがて妻河夕日公園の前へ出る。
海と岬が展望できるその公園は、二人にとって思い出の場所でもある。
そして、あの「白い野菊’白嫁菜’の丘」は、この公園の小道の先にあった。
「久しぶりに、あそこ行ってみるか。まだ花が咲くには早いけど」
「え……航、あそこはちょっと……」
響の声に、微かなためらいが混じっていた。
よく見ると、公園の小道には「工事中」の立て看板が置かれている。
胸騒ぎがして、足が自然とそちらへ向いた。
そして──。
「そんな……これは……」
資料館建設予定地の幕。
重機に掘り返され、踏みつぶされた白い野菊の丘。
「航、だめ……ここは……寂しすぎる。もう行こうよ」
袖を引っ張る響の手が震えている。
だが、航のほうはもっと強く震えていた。
「いや……ちょうど、今までのことを少し話したい。ちょっと、付き合ってくれるか」
「……うん。私も、中学のときのこと……聞きたい」
掘り返された土の匂い。
タイヤの跡。
一面に咲き誇る白い小さな花の記憶は、地中にわずかに残る茎と葉だけになっていた。
航は土をすくい上げる。
湿った粒がぼろぼろと指の間から落ちた。
「こんなこと……あるよな。開発なんて、ありふれたもんだし……」
言いながら、その顔色はとても強がりに見えた。
「昔のここは……まぶしかった。一面真っ白でさ、
雪みたいで……。あの頃は全部うまくいっていた気がしたんだ」
「うん……」
響は静かに頷き、残された葉の土をそっと払った。
「水の中にいるのが、とにかく気持ちよくて……優しくて……。
自分が違う生き物になったような気さえしたんだ。
誰とも競わなくてよかった。ただ、泳げればそれでよかった」
航は、踏み荒らされた地面をじっと見つめた。
「やがてさ……周りに言われるようになって。‘フォームが綺麗だ’とか‘無駄のない動きだ’とか……。
おだてられて、担がれて……俺は、いい気になってた」
「航は……すごかったよ。私から見たら、まぶしくて……手が届かなかった。
練習だって誰よりも残ってたし……」
響の声は優しい。でも何かを恐れているようにも聞こえた。
「……違うんだよ。俺は……ただのピエロだよ。
地方局のテレビでちょっと取材されたくらいで天狗になって……。
ライバルや期待の目が怖かった。
でも一番怖かったのは……自分の体が悲鳴を上げ始めたことだ」
航の表情が、急速に崩れていく。
「努力こそが結果を生む……そう信じてた。でも、
どこかで気づいてたんだ……才能の限界に。
俺は……努力してるフリをしてた。逃げてただけなんだ」
その瞬間、頭の奥に黒いノイズが走る。
『ミトメチマエ……おまえは周りのせいにしてルダケダ……』
『オマエノ弱さをヒトのせいにしてゴマカシテイル……』
『ジブンのやってきたコトガ……ゼンブ無駄になるノヲ……オソレテイルンダ……』
そして航は、ずっと避けてきた言葉を、初めて口にした。
「……俺は……自分に……負けたんだ……」
その声は、まるで壊れる直前の板が軋むようだった。
響は息を呑んだ。
目の前の航は、どこにも立っていない迷子のようだった。
「航……だいじょうぶ、だよ……? しっかりして……」
「大丈夫ちょっと……言ってみたかっただけだから……」
その顔は血の気が引いて、とても危ういように見える
「顔真っ青だよ」
「もう終わったことだすっきりしたよ…これで忘れる」
響は何か言おうとしたが言葉にすることができない
「笑いごとだよ響、これはそういう……こと…」
航の声はどこか、震えるひびきで聞き取りにくい
「諦めることって…こんなに簡単だったんだ…」
違う。もうこれは航ではない
――航がこんな言葉を言うはずがない。
航がこわれていくのがわかる。
響は心の中で叫んだ。
(誰か……助けて。私じゃ……もう航を戻せない……)
その瞬間、
心の奥で眠っていた“もう一人の自分”が目を覚ました。
ひびきが、顔を出した。
航は気づく。
隣に立つ響が、どこか懐かしい匂いと空気をまとっている。
「僕と初めて会った日のこと、覚えてるかい」
響――いや、ひびきが言った。
「ああ。忘れるわけないだろ。あの時は、お前のこと本気で男の子じゃないかと思ってた」
「兄貴のお下がりばっか着せられてたんだ。しょうがないじゃないか。
お前、“女の子です”って言っても全然信じなかったじゃん」
航は胸の奥が熱くなった。
(……ひびきだ。響じゃない。あの日の“ひびき”がいる)
「お前が転校してきたとき、“ひびきってかっけえ”とか……まあ言ったよな俺」
「あんな格好してたら女の子と思われないに決まってるだろ」
「だろうなぁ。だから僕は、女の子からも男の子からも
浮いてて……いつも一人ぼっちだった」
その声は、響とは違う“少年の声”だった。
風が一度、強く吹く。
髪と一緒に、少年の頃の気配が揺れる。
「そんな僕に、航は手を伸ばした。
輪の中に……連れ戻してくれたんだよ」
航の胸に、何かが戻ってくる。
昔の形のまま、確かにそこへ帰ってくる。
「当たり前だろ。お前は——」
喉の奥が震えた。
「……俺のマブだ」
ひびきは、昔と同じ顔で微笑んだ。
「じゃあ、一言だけ言わせてくれ。
心なんて普通はすぐ折れる。逃げたくなれば逃げるのが普通だ。
でも航は違う。
強くあろうとするぶん、誰よりももろい」
「……」
「僕はお前みたいには輝けない。
でも航が暗闇で迷ったら……月明かりくらいには照らしてやるよ」
その言葉とともに、ひびきの気配がゆっくり溶けていく。
響の息づかいと重なり、ふたつの存在がひとつになる。
響が、静かに手を差し出した。
「……だから。
ひびきも響も、ぜんぶまとめて“私”。
この手を取りなさい、航」
夕日が沈みはじめ、街明かりがひとつ、またひとつ灯る。
航はその手を取った。
響の手を。
そして――ひびきの手を。
二人分の温もりを、ひとつにまとめて。
薄暗くなった地面の片隅。
掘り返され、土がむき出しになった場所に――
白い花の芽がひとつだけ生えていた。
まるで、
空っぽになった航の心に、そっと芽吹いた希望そのもののように。
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