第9話 「海色の万華鏡」
夏休みの朝。
遠くで海鳥がひと声、かすかに潮の匂いを運んでくる。
白妻ヶ浜(しらづまがはま)灯台入口のバス停。
航は、ひときわ白く光るガードレールの向こうに
揺れる海面を眺めながら待っていた。
響は、ひとつ前のバス停から乗って来るはず――のはずだった。
そのとき、背後からリズムのいい足音が近づく。
「……あれ?」
振り返るより早く、軽い影が隣にスッと滑り込んだ。
まったく息を乱さず、汗も一滴もなく、涼しい顔のまま響が立っていた。
「暇だから走ってきちゃった」
「いや、家から3キロぐらいあるだろ……相変わらず恐ろしい脚力だな。
もしかして響って、弓道より陸上の方が向いてるんじゃないか?」
「ううん。高校でも陸上部からよく誘われたけど、私は静かな方が好き。
弓道は、とてもいいよ」
その横顔は、弓を引くときの凛とした佇まいを思い出させる。
航は気づけば、ほんの少し口元がほころんでいた。
――キィ、と小さな軋み音。
色あせたみかん色のバスが、潮風に押されるようにゆっくり停車した。
「航、乗ろうか。今日はとっても楽しみ」
「そうだな。水族館……夏休みだし、混んでるかな」
二人が乗り込むと、バスはゆっくりと揺れながら動き出した。
みかん色の車体が、足場の組まれた灯台の脇をかすめて坂道を上がっていく。
白い建物の影が窓をすべり、車内に涼しい光を落とした。
山あいの道に入ると、潮風が松の香りへと変わる。
トンネルを抜けた瞬間、視界がぱっと開けた。
「わあ、綺麗……! 下の川が光ってる」
渓谷にかかるダムの橋。
朝日を受けた川面が、まるで水族館の大水槽のように
淡い青と緑を混ぜてきらめいていた。
響は思わず窓に手を添え、身を乗り出す。
その横顔に、航は気づかれないように微笑んだ。
こうして何かを見つけるたびに素直に驚く響が、なんだか好きだった。
橋を渡り終えると、バスは長い下り坂に差しかかる。
木々の切れ間ごとに、青い空が広がる。
そして、ふいに視界の底から色が溢れた。
——街だ。
遠くの海岸線に沿って建物がぎっしり並び、
朝の光を浴びた海が大きな白い帯を広げている。
港のクレーンが小さな玩具みたいに立ち並び、ゆっくり動いていた。
「見えてきた……あの街の中に水族館あるんだよな」
「うん、今日行けるの、すっごく嬉しい」
響は、子供のように目を輝かせていた。
その表情を眺めながら、航は心の中でそっと思う。
——今日は、いい一日になる。
バスは、海へ向かってまっすぐ下っていった。
「凪音(なぎと)海浜公園前、お降りのさいはお忘れものにご注意ください」
バスを降りて、公園を少し急ぎ足に歩く響。
「クラゲっていいよね。何時間でも見れちゃう。
ほら航、入口が見えてきたよ」
河口のすぐ横に建てられた真っ白な建物——
「凪音水族館」。
外観は近代的だが、創立から何十年も経ち、
そのたび展示エリアや研究棟が継ぎ足された結果、
内部はまるで迷路のように入り組んでいる。
「気をつけないと迷子になるって、響が言ってたやつか」
航は入口の案内図を眺めながら呟く。
「うん。小さいころお父さんと来たとき、クラゲのところで本気で迷った」
響は苦笑して肩をすくめる。
「でも——ほら、入口のガラス越しにもう見えるよ。水の色がすごく綺麗」
ガラス壁の向こうで、朝の光が大水槽に差し込み、
水面を淡い緑と青に染めてゆらいでいる。
海に近い水族館だからか、潮の香りもほんのり濃い。
「じゃ、行くか。……迷子にならないようにな」
航が軽く笑いながら言うと、
「それなら大丈夫。航がいるもん」
響はあっけらかんと、でも少し照れを含んだ声で答えた。
入口ゲートをくぐると、ひんやりした空気が二人の頬を撫でる。
外より少し暗い通路には、海の匂いと静かな足音だけが響いていた。
最初の展示は、天井近くまで続く縦長の水槽群。
小魚たちが光をまといながら縦横に泳ぎ、
通路に反射してゆらゆらと青い影を落としている。
「わ……これだけで来てよかったって思っちゃう」
響が息を呑む。
航は横顔を眺め、光の反射で揺れる青が響の頬を淡く照らすのを見つめた。
——いい一日になる。
さっき胸に浮かんだ予感が、確信に変わるようだった。
「クラゲのコーナー、あっちのはずだよ。行こ?」
響が軽く航の袖を引く。
「お、おう。そんなに楽しみか」
「うん。だって、クラゲってすごいんだよ。
形も動きも全部バラバラなのに、見てると不思議と心が落ち着くんだ」
言葉より先に、響の足が自然と軽くなる。
まるで、水族館の中を泳ぐひとつの生き物のように。
二人は、ゆるやかに続く暗い通路を進む。
青い光がまたひとつ、またひとつ、足元を照らす。
そして、角を曲がった先——
静かな海のように満たされたクラゲホールへ、二人の影が吸い込まれていった。
クラゲホールに足を踏み入れると、ひんやりした青い空気が二人を包んだ。
ふわり、ふわり——
丸いガラス水槽の中で白い傘がゆっくり呼吸するように揺れている。
その静かなリズムに、響は思わず足を止めた。
「……綺麗。やっぱり好きだ、ここ」
響は小さな声で言う。
航は隣に立つ横顔をちらりと見て、
「だよな。なんか落ち着くよな……」
言葉はなくても、水の揺らぎに合わせて二人の呼吸がゆっくりそろっていく。
夏休みの午前中だけに許されたような、柔らかい静けさだった。
「もう少し見ててもいい?」
「もちろん。……響がこんな顔するなら、何分でも」
響は照れたように笑い、再びクラゲの漂う光の中へ視線を預けた。
ほんの数分——だけど、長く記憶に残るような穏やかな時間だった。
やがて響がふと振り返る。
「次、トドの水槽行ってみよう? 餌の時間、もうすぐかも」
「お、いいな。あいつら迫力あるしな」
二人は足取り軽くクラゲホールを後にした。
通路を抜けると、広めの円形プールが見えてくる。
水面は濃い青色で、深い海の一部だけを切り取ったようだった。
「……ん?」
航が立ち止まり、眉をひそめる。
水槽のガラスに貼られたA4用紙。
赤い太字が目に飛び込んできた。
『トドが顔を出したら手を引っ込めてください かまれます』
響も読むなり、思わず「えっ……」と声を漏らす。
「そんな物騒な注意いる? 展示めちゃくちゃ近くない?」
航が小声でつぶやく。
「トドって、けっこう気性荒いんだよ。可愛い顔してるけど……」
響はガラスの向こうを覗き込みながら説明する。
ちょうどその瞬間——
ドンッ! と水面が弾け、巨大な影が勢いよく浮上した。
「うわっ!?」
航は半歩のけぞり、響もびくりと肩を跳ねさせる。
少し水もかかる。
水飛沫を散らして顔を出したトドは、想像以上に大きく、でもどこか愛嬌がある。
「……うん。これは張り紙必要だわ」
航が小さく息を吐く。
響は胸に手を当て、ふっと笑う。
「びっくりした……! ほとんどびっくりばこ、心臓に悪いね」
「えさやり体験100円って、これやるのか。やばいだろこれ」
「私ちょっと怖いけど、航なんかやりたそうな顔してる?」
「せっかくだし、度胸試しだな」
二人は100円を支払い、飼育員から魚をもらう。
トングに挟むと、トドが遠くからドカドカやってくる。
そこへヒョイっとアシカが魚を横取り。
トドはものすごく残念そうな顔をして、すごすご戻っていった。
「あのトドちょっとお気の毒」と響が笑う。
航も笑い返す。
「そういえば響、ちょっとおなかすかないか」
「えええ、もう12時近いよ。いつの間に時間たったの」
「どうする、軽く2階で食べるか?」
「ここのフードコート、意外としっかりしていてシーフードおいしいの」
二人は2階のテラス席に移動し、注文する。
響はシャークフィッシュバーガー、航はマグロユッケ丼。
「ほんと航はマグロ好きだよね。大水槽見て“おいしそう”とか言わないでよね」
「響もサメのバーガーって冒険だよね」
「サメって油で揚げるとおいしいのよ。
少しだけ生姜汁とニンニクを塗ると臭みが消える。
昔、おばあちゃんに教わったんだけど」
響は得意げに話す。
航は微笑みながら頷いた。
「そういえば、回転ずしでいきなりマグロ5皿頼んでいたよね」
「魚は全般的に好きだからね。ちょっと牛肉系のお寿司だけ苦手」
「鶏肉とか豚肉は良いのにね。やっぱり子牛のメリーちゃんのせい?」
「よくそんな昔のことを、俺の黒歴史を紐解くな」
昼食を終えると館内放送が流れる。
「イルカショーの時間が近づいています。会場へお進みください」
青いプールの上でイルカたちが飛び跳ねる。
航と響は並んで座り、夏の光と水しぶきに包まれながら見入る。
イルカたちの跳ねるたび、歓声と水の煌めきが一体となり、二人の心も弾む。
プール脇には特別展示として陸上動物のスペースもある。
小さな囲いにアルパカがいて、訪れた人が直接餌をあげられる。
響は目を輝かせ、アルパカに夢中になる。
「なぜアルパカが……ここ、水族館だよね?」
「でも私アルパカ大好き」
響が夢中の間、航はそっと腕時計を確認した。
「そろそろバスの時間だ。これを逃すと、海沿いの電車で四国半周の旅になるぞ」
「え、そんなに遠回り?」
「そうそう。真ん中を突っ切るバスしか使えないんだ。しかも本数少ない」
航は軽く笑いながら、響の手を取って館を後にする。
外に出ると、夏の光が二人を迎え、潮風が頬を撫でる。
「今日、一日中楽しかったな」
「うん……クラゲもトドもイルカも、アルパカも……全部覚えておきたい」
二人は手をつなぎ、ゆっくりバス停へ向かう。
夏の空の下、遠くで波が白く砕ける音が聞こえ、潮の匂いが柔らかく漂う。
「また来よう、絶対に」
「うん、次はもっとゆっくり回れる日がいいな」
バスがやって来る音が遠くから聞こえる。
二人は笑いながら肩を寄せ合い、今日の思い出を胸に、帰路についた。
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