第8話 「裏と表の合わせ鏡」
夏本番の蝉の声が、ここぞとばかりに鳴き響いていた。
終業式を終えた航と響は、暑さを避けて、いつもの甘味屋・蜜あんこうに避難する。
古びた隠れ家のような店で、響のお気に入りの場所だ。
古い時計とアンティークな人形。
壁には織り込み人形と、小さな色とりどりの傘。
ここだけ時間が止まったような、不思議な空気が漂っていた。
手書きで、少しセピア色に焼けたお品書きを開きながら、
航はふと値段を見て心配になる。
「いつ変わったんだ?」
記憶にないまま、値段も雰囲気もずっと変わらない。
――経営、大丈夫かな……と思わず余計な心配をしてしまう。
響はいつもの抹茶と白玉あんみつ。
航はほうじ茶オレと夏蜜柑の葛餅を選ぶ。
「昔から、ここ変わらないよね。僕、ここがとても好きだ」
と言った瞬間、自分で「あ」と気づく。
「響乃さん、響が“僕”って言うと、『私って言いなさい』って怒ってたよな」
「そうなの。でもおばあちゃん、たまに“あたい”って言ってたよ?」
「どっちが男っぽいかって話?」
「えー、私、男っぽくないよ。かわいい女の子だよ」
航は笑いながら言う。
「かわいい女の子は“僕”って言わないよ。でも響はかわいいけど」
響は耳まで赤くして、そっと目をそらした。
そのとき、白髪のお店の人がにこやかに甘味を運んでくる。
古い木の机にそっと置かれたそれを見て、響の表情がふわりとやわらいだ。
「……ほら、来たよ。いただきます」
「いただきます」
ふたりの声が重なる。
店の奥では扇風機がのんびりと回り、今にも止まりそうなのに、
どこか心地よい風を送っていた。
蝉の声は、外の世界のものとは思えないほど遠く感じられる。
響は白玉をひとつすくい、小さく笑う。
「やっぱこれ、落ち着くね」
航も夏蜜柑の葛餅を口に運ぶ。
優しい酸味と、涼しい舌ざわり。
「ここに来ると、子どものころに戻った気がするな」
「そうだね。あの頃は、ここみたいに一日がすごくゆっくりだった」
遠い日を思い浮かべるように、二人はしばらく黙った。
何をしてもうまくいっていた、あの頃。
世界が味方してくれていると信じていられた頃。
「……もしかして、響と一緒にいなかったから、うまくいかなかったのかな」
響はふっと優しく笑った。
「航はいつでもすごいよ。航が気づいてないだけ。人と比べてもしょうがない」
「俺は響がすごいと思う。いつもまっすぐで、ぶれない。俺に比べたら……」
「ほら、また比べてる。航の悪い癖。自分は自分だよ。
いつも日陰だった私の太陽。とてもまぶしいの」
響の淡々とした声は、不思議と温かく心に染みていく。
航はこの子を大切にしよう、と自然に思えた。
葛餅を口にしながら航が聞く。
「そういえば、夏休みって何か予定ある?」
響は白玉をあんこと一緒にほおばりながら、少し照れたように言う。
「まだ特にないけど……航と一緒なら、どこでもいい…かな」
照れながら目をそらし、でもすぐににっこりと笑った。
「じゃあさ、水族館行こう。くらげ見てると吸い込まれそうなんだ」
「んじゃ約束だ。夏は二人で水族館!」
二人はくすっと笑い、軽く手を合わせる。
胸の奥がほんのり温かく、何かが満ちていくようだった。
そのころ、エミリーは海岸沿いでぼんやりと波を眺めていた。
そこへ仁が通りかかり、軽くあいさつを交わすと、今までの経緯を一通り話す。
「フーン、やっぱりあのふたり、付き合い始めたんだ」
「やっぱり驚かないんだな」
「マアネ。前から見てたら、あれで付き合ってないほうがおかしいでしょ」
「それで諦めたのか?」
「ナニヲイッテルノカ ワッカリマセーン」
仁は苦笑しながら肩をすくめた。
「まあ、そういうことにしとく。ところでエミリー、
日本語かなりうまくなったはずだが」
「ヒトシまあ、ありがとう。でもね、あんまり’ガイジン’に“日本語うまくなったね”って言わないほうがいいかも」
「ん、どゆこと?」
「たとえばさ、ほぼ日本人と聞き分けがつかない人には言わないでしょ?
だから“まだまだなんだ”って思っちゃう」
「エミリーもなかなかだと思うけどな」
「水の中にいるトキはね、少しはマシなんだけど。
昔、地区大会で一位にナッタこともあるのに……陸に上がると、ゼンゼンダメなの」
「ワタルのことで空回りばかりで、自信なくて」
エミリーは小さくつぶやく。
「You can never tell what’s inside a person’s heart.
――人の心は、本当の意味ではわからない」
仁は少し照れたように言った。
「…But I think you’re kind.
――でも、エミリーはやさしいよ」
エミリーは目を丸くして仁を見つめる。
仁は耳の後ろをかきながら、
「勉強してるのはおまえだけじゃないんだよ。
英語の答案用紙が返ってくるのが恐怖じゃ、かっこ悪いだろ?」
エミリーはふっと笑って、
「ダッテサ、昔ヒトシ、答えに困ると “イエスイエス” って言ってたじゃない。
それでワタシが “Are you a bear?” って聞いたら、本気でイエスって答えたんだよ?」
「おかげで航に“くまさん”ってあだ名つけられたんだぞ」
エミリーは吹き出した。
「ハハハ、ごめんね。でもね、そんな熊さん、けっこういいと思うよ?」
軽く仁の体つきを目で追い、
「ウン、合格。ワタシね、強い男って好み」
「おまえは話がよく飛ぶし、からかってない?」
「ワタシはねーコワイノヨー、くまさんなんて、残さず食べちゃうんだから」
ガオーっというジェスチャーで急に言われ、仁はおどけて言う。
「食えるもんなら食ってみなよ」
エミリーはにやりと笑い、軽く仁の頬にキスを落として言う。
「それじゃ、いただいちゃおうかな。じゃあね」
残された仁の顔は、釜茹でされたタコのように真っ赤だった。
だがその奥には、確かな決意が芽生え始めていた。
「航、エミリーは・・・」
潮風が頬をなで、蝉の声と共に夏の一瞬が過ぎていく。
黄昏どき。
海岸に立つエミリーは、ポケットから貝のブレスレッドを取り出し、
そこから貝だけを外し、そっと砂浜に埋めた。
「ワタル……ありがとう。
そして、さようなら」
あたりが暗く染まり始めるころ、エミリーの頬を一筋の涙が伝った。
海の潮騒だけが、その声を静かに聞いていた。
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