第5話 「卵と昆布巻きのアルペジオ」


潮の匂いがやわらかく漂う中、寄せて返す波の音を聞きながら、

響がそっと弁当の包みを開いた。


「いつもまめだよね、響は。ほら、この昆布巻きなんか凝ってるし」


俺が言うと、響は箸を止め、少し眉を寄せた。


「でも……私のお弁当、地味じゃない? なんか、おばあちゃんみたいで」


「え、これが? 優しい色してるし、めっちゃ美味そうだけど」


響は照れたように笑い、ぽつりと言う。


「……おばあちゃんが、いつも教えてくれたから」


響のおばあちゃん──村上響乃。

背筋がすっと伸びていて、年齢を感じさせない、ちょっと迫力のある人だった。


「えええ、あの超肝っ玉ばあちゃんが?」


「ちょっと! 天国で怒ってるよ。航、絶対なんか投げ付けられるからね」


言いながらも、響はどこか誇らしげだった。


卵焼きを口に入れた瞬間、ほんのり甘いだしの味が広がる。

そのとき、響が唐突に口を開いた。


「ねえ、航って……もっと派手な女の子のほうが好き?」


その一言で、俺はだし巻き卵を飲み込み損ねそうになる。


「うっ……!」


なんとか飲み込むが、喉に変に入りむせる。


「げほっ……な、なんでいきなり……」


「水飲む?」

響がすっと差し出した水筒。

自然すぎる動きに、俺は反射的に受け取る。


落ち着く間もなく、響は続ける。


「でもね、エミリーって子、かわいかったよね。

わかるもん、航ってさ、ああいうのタイプでしょ?」


「いやいや! あいつは同僚でライバル! 外国の人だから距離が近いだけだよ!」


慌てて返す俺を見て、響は小さくむっとする。


やがて、響は視線を落として小さく呟く。


「航、私ね……あの子、ちょっとだけ嫌だな」


その言葉だけで、胸がざわりとする。


「だって航の近くにいたのに……一番苦しいときにちゃんと見てくれなかった」


海風がふっと強く吹き、響の前髪が揺れる。


「私、中学は別だったし……どうしてるかなんて、ちゃんとはわからなかったし」


焦る俺は否定する。


「そんなことないし! そもそも、そういう関係じゃないし!」


しかし響は、じっと俺を見つめて言う。


「……航はさ、鈍感なの。それ、重罪だからね」


言葉はとげがあるのに、目はどこまでも必死で優しい。


どう返せばいいのかわからず固まる俺に、響はさらに続けた。


「……ごめんね。航、私……エミリーと話したの」


思わず息が止まる。

中学の頃の響を知っている。

引っ込み思案で、人に踏み込むタイプじゃなかった。


響は指先をぎゅっと握りしめながら言う。


「航のことどう思ってるのか……聞いたの。

いま航、大変でしょ?

このままでいいのかなって……思ったから」


声が少し震えていた。


「そしたらあの子、

“航って何言ってもひびかないし、注意してもまったく聞かないの。

普通おかしいでしょ?”って……」


「それは……ちょっと――」


否定しようとした俺を遮るように、響の言葉が溢れ出す。


「だって! 私はずっと心配してるのに……

いつも見てるのに……

力になりたくても近くにいなくて……

何もできないのが、悔しくて……!」


普段口数の少ない響が、まるで堰を切ったように吐き出していく。


「それで言ったの。

“私、こんなに心配してるのに何もできない”って……

そしたらあの子、

“だったらあなたがやりなさいよ。

あなたが一番わかってるんでしょ?

あんたに全部任せた”って」


響の拳が震えていた。


「……航、悔しかった。

だって……航は、私の――」


その瞬間、響ははっと口を押さえた。


潮騒の音が、急に遠のいたように感じた。


響は、越えてはいけない線を自分が踏みかけたことに気づいた顔をしていた。

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