第3話 「見えない空と境界線」

土曜日の午前。


薄く白い空を見上げながら、航は小さくつぶやく。


「俺の心みたいだ」


そんな気取ったことを言って、つい自分で苦笑する。


航は電車のドアにもたれ、流れていく景色をぼんやりと見送っていた。

ホームに吹き込む初夏の風は驚くほどやさしいのに、

胸のあたりだけがどうしようもなく重い。


身体もどこかだるく、揺れる車内に合わせて肩が微かに痛む。

筋肉痛か。なさけない……大した練習もしていないのに。


そう思うたび、昨日の響の横顔がふいに浮かぶ。

すっと水面を切るような、あのまなざし。

まぶたの裏にこびりついて離れない。


「……そうとうやられてるな」


誰にも聞こえないほど小さく独り言ちて、また苦笑する。

強がってみても、気持ちはぜんぜん誤魔化せない。


練習していた白妻ヶ浜(しらづまがはま)海岸総合施設から二駅。

25メートルプールしかない古びた市営施設だ。


「……ここなら、元コーチも仲間も来ない」


午前のまだ早い時間帯。館内にはほとんど人影がなかった。

受付でカードを通し、更衣室で無言で水着に着替える。


鏡に映る自分に、航は思わず目を止めた。


落ちた筋肉。

うっすら浮いた鎖骨と肩のライン。


(……大丈夫。まだいける)


口元が勝手に苦く歪む。

そんなはずはないとわかっていながら、

自分をごまかすように視線をそらし、プールへ向かった。


水をすべるように泳ぎ始める――。

だが、25メートルを往復するだけで距離が妙に長く感じた。

体は痩せて軽いはずなのに、水の抵抗だけがやけに重い。


わかっている。

落ちているのだ、筋力が。

浮力が足りない。

体脂肪のバランスが完全に崩れている。


そして、一番認めたくない事実――。

練習のしすぎは、必ずしも結果を生まない。


「ワタル、そんなに練習したら体にヨクナイ」


誰かの声が心の中に静かに囁いていた。

努力は裏切らないと信じてきた自分が、裏切られたような気がする。

胸の奥に反論の言葉すら湧いてこない。

ただ、ぽっかりとした喪失感だけが沈んでいた。


そのとき、プールサイドに仁が立っていた。


「なんだよ、意外そうな顔しやがって。俺だってたまには泳ぎに来るんだぞ」


仁の家から白妻ヶ浜海岸総合施設は目と鼻の先。

わざわざ電車賃払って、こんなオンボロの25メートルプールに

来る理由なんて――


考えるより先に、仁が言った。


「金なくてさ。こっちの方が……ほら、150円安いんだよ」


「海行けよ! 海なら無料だろ」


「まあまあ。いいじゃねえか、付き合えよ。昔はよく教えてくれただろ」


そう言うが早いか、だあん、と豪快な水しぶきを上げて飛び込む仁。


「仁! 初級者レーンは飛び込み禁止だって! そっち行くから待ってろ!」


仁の泳ぎは基本をよく押さえていた。

昔教えたことを驚くほどそのまま守っている。


「息継ぎのタイミングをもう少し遅らせろ。

それと後ろ足を下げろ、頭が沈みすぎてる。……ああ、だいぶいいじゃないか」


粗削りではあるが悪くない。

あの豪快すぎる飛び込みからは想像もつかないほど整ったフォーム。


仁は水面から顔を上げ、鼻で笑った。


「どっかの誰かさんが鬼みたいにしごいたからな。響なんか涙目になってただろ」


あのとき「男だろ、根性出せ」なんて言ったら、響は無言で蹴りを入れてきた。

いや、変なものを背中に突っ込んでこなかっただけましか。


そんな会話をしているうちに、曇っていた初夏の空が少し明るくなった気がした。


軽く泳いで休んでいると、仁が近づいてきた。


「おい、腹減っただろ」


そんなに減ってはいなかったが、万年腹ペコの仁に合わせ、航は答える。


「……そうだな。近くにファミレスあるだろ。行くか」


「さんせーい! 腹減った!」


半ば強引に連れ出され、プールを後にした。


ファミレスに着くと名前を書いて待合の席に座る。

待合の角に、ちょこんとした小さな本棚。


ふと目に入った背表紙に、「駅牛車 坂ノ上 馬助」と書かれている。

航は手に取ると、本の帯にこう書かれていた。


「いま明かされる、あの駅前ロータリーの誕生秘話」


航は静かにその本を本棚に戻した。


仁は席につき、メニューを広げて目を輝かせる。


「うわ、これこれ。頼むぞ航、遠慮すんなよ」


次々と注文し、届いたそばから豪快に平らげる仁。

航はそれを見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「……相変わらずよく食うな」


「当たり前だろ。食うってのは、ただ腹満たすだけじゃねえんだよ」


仁は箸を置き、珍しく落ち着いた声で言った。


「ばあちゃんがよく言ってた。

“人はな、食えるうちは大丈夫だ。心まで死んでねえ”って」


その言葉に航は息を呑んだ。

さっきまでの軽口とは違う、まっすぐな響き。

響から聞いた航の不調を、本気で心配しているのが伝わる。


「だから今日は気にすんな。食え。少しでも食え。

それだけで、お前は前に戻れる」


航はわずかに視線を落とす。


「……お前、誰に聞いた。それにどうしてあの場所が分かった」


仁はニッと笑い、追加のデザートを注文した。


皿をきれいに片づけた頃、航は味噌汁を半分飲んだ程度だった。


「誰だと思う?」


「響か……」


「ざんねん、エミリーだ」


「そんなわけないだろ……」


「あっちはそう思ってもおかしくないだろ。お前は女心がわかってねえな」


「そう思うも何も、何も始まっちゃいねえよ」


「おいおいそれはないだろ」


仁は思う。昔から航は、何事にも真剣でストイックだ。

響もエミリーも一目置くが、いかせん鈍感すぎる。


「そういえば、最近鍛錬やってないな。今度付き合え」


昔、航は競技の成績や嫉妬でトラブルが多々あった。

自分ぐらいは守れるようにと、仁と昔からハンデ付きで手合わせしてきた。


「また練習の手合わせか。お前、地区大会上位だろ。だいぶ不利になってきてるんだが」


「よく言うわ。お前、100m自由形で全国レベルで

結果出してるんだろ? すごいことだぞ」


「それとこれとは関係ないだろ。昔のことだし、中途半端だし」


「中途半端ねえ……おまえはいろいろとわかってねえ」


「ちょっと待て、何が“わかってない”だよ」


「重症だな。響には今のこと言うなよ」


「おいおい、響は関係ないだろ」


「いろいろとあるんだ、わかってやれよ。じゃあな」


仁は伝票を手に立ち上がる。


「まあここは俺が誘ったし、払っとく。ゆっくり食ってけ」


仁はさっさと会計を済ませ、店を出ていった。


「まさかな……いや、そんな……」


「……笑えるな」


大量の料理を前にして、航はぼそりとつぶやく。


「それにしても、どうするんだこれ」


残すのも癪なので、ゆっくりと食べ始めた。


「……これは長丁場になるな」


航が店を出たのは、日が傾き始めた頃だった。

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