第2話 「茜色に染まる横顔」
放課後のチャイムが鳴り終わるころ、
校舎の廊下にはゆっくりとした足音が増え始めていた。
部活へ急ぐ足、寄り道の相談をする声、教室へ戻る忘れ物の気配――
昼間の喧騒が溶けていき、学校は夕方だけの匂いをまとい始める。
航は鞄を肩に掛け、階段を下りながら空を見上げた。
薄い雲の隙間から射す光が斜めに伸び、校舎の壁を柔らかく染めている。
その光を見た瞬間、ふいに耳の奥で波が引く音がした。
プール横を抜け、弓道場の脇を通りかかったとき――
ざざっ、と砂に弓が刺さる乾いた音がひびいた。
矢道から戻ってきた響が、小さくつぶやく。
「……当たらない。集中してるのに」
夕焼けに染まった横顔は、普段めったに見せない寂しさを帯びていた。
(相当まいってるな、あれは……)
航はそっと弓道場の入り口をくぐる。
足音を忍ばせて階段を上がると、響は矢を握ったまま静かに立ち尽くしていた。
夕日に照らされた横顔は、いつもの冷静さとは違い、どこか焦りを含んでいる。
姿勢は乱れていないのに、心だけが宙に浮いているようだった。
「見てた?」
航の気配を察したのか、響は振り返らずに声を落とす。
「いや、ちょっとだけ」
「そっか。今日、全然だめ」
短く切られた言葉に、航は返す言葉を失った。
響が弱音を吐くなんて、ほとんどない。
的を外した矢より、その一言のほうが胸に深く刺さる。
射場の向こうで、夕風が的紙をゆらりと揺らす。
そのかすかな音だけが、響の沈黙を静かになでている。
航は砂の上に視線を落とし、そっと口を開いた。
「集中してるのは分かった。でも、こういう日もあるよ」
「あるけど……今日はなんか違う。
自分の手じゃないみたいで、力の入れどころが分からない」
矢先を見つめたまま、響は眉をぎゅっと寄せた。
その仕草が、普段より少し幼く見えて、航の胸の奥がじわりと痛んだ。
「弓道のことは詳しくないけど……弓と手に意識が行きすぎてない?
一瞬だけ視線が的の下にずれてる。フォームを気にしすぎてる証拠だよ」
「えっ、一瞬でなんでわかったの?」
「なんだろうね。そんな気がしただけ……悪い、ちょっとカッコつけただけ」
遠い目をした航に、響は小さく笑った。
「そこで見てて。今度はいけそうな気がする」
響はゆがけをはめ直し、静かに射位へ向かう。
弓をつがえる所作は、思わず息を呑むほど美しかった。
――矢声。
磨かれた床に響く、澄んだ「トン」という音。
矢は的の白、下方の“二”に吸い込まれていった。
「あ、当たった……すごい……」
「やればできるじゃないか」
「そうじゃない……航の指摘、なんか達人みたい。ねえ航、今でも――」
言いかけて、響はそっと視線を落とす。
響は気づいている――当然だ。俺の表情がわずかに変わるだけで、すぐに察してしまう。
そういうところは昔から鋭く、まっすぐで。
響はふっと息を吸い、的から目を離した。
「でもね……うん、航が決めること。
ぼくは、どんな答えでもいいの」
その声は慰めでも説得でもなく、ただ真っすぐに届いてくる。
言葉の表面よりも深いところで、こちらの迷いを包み込む響きだった。
まだ、あきらめきれない。
わかっているのに、認めたくない――胸の内で心の葛藤が静かに渦を巻く。
「そうだな。自分で認めなければならないし、
いつまでも引きずっているわけにもいかない」
航が絞り出すように言うと、響はゆっくりとうなずいた。
「焦らなくていいよ。
ただ――後悔のないようにね」
その声音は淡々としているのに、どこか優しく、支えてくれるようだった。
響はふと思い出したように、手のゆがけを掲げて見せる。
「ねえ航、あさっての日曜日、付き合ってくれる?」
示されたゆがけは、指先の革が少しすり減っていた。
「おまえ……練習のし過ぎだ。
やりすぎは良い結果を生まないぞ」
「……うん、わかった。ほどほどにする」
響が照れたように笑い、手を下ろす。
気づけば、夕日の赤はもう薄れ、
校庭の端から夜の群青色がじわりと広がり始めていた。
放課後の終わりを告げる、静かな区切り。
二人の影は長く伸び、やがてゆっくりと重なっていった。
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