第5話「嘘」
1945年の初め。
都の役所に、ひっそりと一通の書簡が届いた。
封は丁寧で、文字は過剰なほど力強い。差出人は、遠いベルリンであった。
書記長アルマリク=アル=アフマールは、山積する執務の合間に、それを開いた。
> 「貴国を蹂躙し、民族の先祖代々の土地を略奪せんとする赤き悪魔、ボルシェビキに、神の鉄槌を下し給え。
貴国とその民族が蜂起すれば、我が国はソビエト人民委員を挟撃することが可能となる。
ぜひ、検討されたい。
第三帝国総統 アドルフ・ヒトラー」
書記長は、読み終えると書簡を折り畳み、ため息をついた。
怒りも、恐怖も、そこにはなかった。ただ、忙しさだけがあった。
彼は即断した。
この手紙は、自分が持って行くものではない。
親族の大名、ラジュル=ワドゥドを名代として、
いつもの場所へ向かわせた。
道師アルマナファド=アル=サミットは、変わらず、静かにシーシャを燻らせていた。
その隣には、名を失った元国王アルム=カームが控えている。
誰も彼を王とは呼ばない。
だが、そこにいるだけで、場の重心は定まっていた。
ワドゥドが書簡の内容を伝えると、道師は鼻で小さく笑った。
「つまり、援軍として我が国の若者を兵として差し出せ、と。白人の考えそうなことだ」
しばし沈黙が流れた。
その中で、元国王が、ふいに口角を上げた。
「……ゲームをしようではないか」
そう言うと、彼は奥へと姿を消した。
一時間ほどして戻ってきた元国王は、一通の書簡をワドゥドに手渡した。
「ベルリンへの返答だ」
内容は、誰にも読ませなかった。
ワドゥドはただ頷き、ソビエトの監視をかい潜る手配を整えた。
書簡は、確かにドイツへ向かった。
1945年5月。
ベルリン、地下総統官邸。
崩れかけた地上とは対照的に、地下ではまだ、怒声が生きていた。
「我々は、一杯食わされたのだ!」
ヒトラーは叫んだ。
「諸君!彼の国は、彼の民族は、かようにして、我がアーリア民族を愚弄したのだ!!」
机には、例の返書があった。
> 「ドゥドマスタンは、ドイツ第三帝国と共にクレムリンを焼き払う準備がある。
近日中にソビエトを攻撃する。
アーリア民族は、我らの友人である。
ぜひ協力したい。」
その言葉を信じ、ナチス・ドイツ軍は援軍を当てにして、一時的に、いくつかの重要拠点から兵力を削減していた。
それが、嘘であるとも知らずに。
白人国家を一つ、内側から崩すための、
静かな策略であるとも知らずに。
やがて、ヒトラーは一人、執務室に残った。
銃口をこめかみに当て、引き金を引く。
地下に、短い反響が残った。
その頃、ドゥドマスタンでは、何も起きていなかった。
蜂起もなく、動員もなく、若者が銃を取ることもなかった。
ただ、いつもの祈りがあり、いつもの沈黙があった。
この国は、また一つの大国を、嘘だけで見送ったのである。
それは勝利ではない。
英雄譚でもない。
――ただ、
生き残るために必要な、最低限の仕事だった。
そして、嵐は終わった。
アル=バカーالبقاء 無邪気な棘 @mujakinatoge
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