主の隣に誰でもない存在だけれも、ただ 隣に

――遅かった。


それが、最初に浮かんだ感覚だった。

昼間の人の気配は、まだ薄く、視界の端に揺れる風と葉だけが世界を満たしていた。

石段を上がる僕の目は、自然とあの影を探していた。

――あそこに、いるはずだ。


御神体の下。

僕の記憶では、いつもそこに立っていた。

でも、今日の彼は、もうその場所にいない。

空気に残る匂いは、微かで、まるで消えかけの灯火のように弱い。

それでも、境の痕跡は確かに残っている。

――戻れぬ。


僕はその場に立ち止まり、呼吸を整える。

人の魂の熱は、もう完全には流れ込んでいない。

だが、かつてのような消えそうな存在でもない。

主は、人として、確かに生きている。

それだけで、僕は安心と焦りを同時に感じる。


……愚かだな。


心の中で、何度も繰り返す。

あの時、あの境界を越えた瞬間。

――一度目の代償を受け入れさせた時。

そして、今。

二度目の代償を払わせながら、僕は、まだ主の手を離せない。


御神体の影に、ゆっくりと足を踏み入れる。

人の気配に満ちた場所。

嗅覚を研ぎ澄ませば、呼吸のひとつひとつ、体温のわずかな揺れまで感じ取れる。

でも、距離は安全だ。

僕は触れようとは思わない。まだ。

ただ、そこに存在するだけで、彼の側にいることができる。


――お前は、人として生きる。

だが、私は、もう誰でもない。


自分の存在を確認するように、手を視線の高さまで上げる。

冷たく、かすかな感触が残る。

名前も、役目も、屋敷も、何もない。

だが、それで構わない。

主の隣に立つためには、それが必要だったのだ。


――名前を持たぬことの痛み。


かつて、私は呼ばれることで、世界に確かに存在していた。

名を呼ばれ、境に結ばれ、役目に縛られ、命令に従うことで自分であった。

今、それを失った。

失った瞬間、胸の奥に穴が空いたように、何もかもが遠くなる。

だが、主の手が隣にある限り、それは穴ではなく空間になる。

――間を埋める空白。


昼下がりの境内。

風が木の葉を揺らす。

僕は影の奥に立ち、主の背中を見つめる。

動きは人と同じでも、魂は異界のまま。

人の世界に完全には染まらず、かといって妖の世界に戻ることもない。

――境界は、消えた。


視線を少し下げると、彼の手元に花札の包みがある。

まだ開かれてはいない。

昨日の夕方、少しだけ触れた指先の温度が、今も残っている。

その感触を思い出すたび、胸の奥が、微かに痛む。

痛みは、失ったものを思い出させる。

だが、それ以上に、守れたものの温度を思い出させる。


――人として生きるお前と、誰でもない私。


静かに息を吐く。

冷たい空気が、肺を満たす。

私は、存在を彼に伝える。

声は出さず、名前も呼ばず、ただ、そこにいることを示す。

主は振り返らずとも、わずかに手の位置を変える。

それだけで、僕は確かに生きていると知る。


日が傾き、影が伸びる。

僕は御神体の影に沿って立つ。

周囲の音は、人の世界のざわめきと、落ち葉のかすかな摩擦音だけ。

――これが、今の私たちの時間。


夕暮れ。

主はふと立ち止まり、石段を見上げる。

そして、そっと振り返る。

視線は、私に届かない。

だが、存在は届いている。

呼ばれずとも、ここにいることが、私の答えになる。


――誰でもないことの自由。

そして、誰かの隣にいるという約束。


手を伸ばす。

肩に触れれば、冷たさが伝わる。

だが、今の冷たさは痛みではない。

温度を伴う、生命の証。

主も、私も、同じ時間を生きている。


風が吹く。

境界は完全に閉じ、もう二度と戻らない。

でも、それでいい。

主の呼吸が、確かにここにある。

それだけで、私の存在は意味を持つ。


――愚かだな、私も。


誰でもないくせに、守りたいものがある。

それでも、私はその感覚を否定しない。

必要なのは、存在を伝えることだけ。

名前も、役目も、屋敷も、もはや関係ない。


夜が近づく。

主は家へ帰る。

私は影のまま、御神体の下に残る。

振り返らず、追わず、ただ、待つ。

また、彼がこの場所へ戻ることを知っているから。


――そして、明日も、私はここにいる。

名前を失っても、役目を捨てても、彼の隣に立つために。

誰でもない存在として、ただ、隣に。


――十分だ。

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御神体の下で僕だけが君を見た @munotanomu

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