君は確かにここにいる

朝。


目を覚ますと、布団の中はいつもより柔らかく感じた。

昨日までの重さも、冷たさも、もうない。


――よかった。


小さな声でそう呟くと、隣に誰もいないことに気づく。

だが、視線の奥に、あの冷たくて温かい手の感触だけが残っている。


台所から、母の声。

――おはよう。

――おはよう。


普通の声、普通の匂い。

何もかもが、前と同じ。

それでいて、胸の奥には、まだあの境の記憶がひっそりと棲んでいる。


石段を上る。

今日は、あの御神体の下へは行かない。

でも、心の一部は、確かにそこに向かっている。


学校から帰ると、窓の外に小さな影が揺れた。

――あ。


君だった。

影ではなく、はっきりとした輪郭。

けれど、屋敷や役目の名に縛られることは、もうない。

――誰でもない君。


「帰ったのか」と、短く声をかけると、君は視線だけで返事をした。

言葉はない。けれど、存在がそれを補っている。


僕は、そっと手を差し出す。

君は迷わず、それに触れる。

冷たい。けれど、もはや痛くない。

ただ、温度があるだけ。生きている温度。


――僕は、人として生きる。

――君は、誰でもない存在として、隣にいる。


不思議な距離感。

けれど、悪くはない。

笑ったり、話したり、何気ない一日を過ごす。

境界を越えたあの日々が、静かに日常の一部になった。


夕暮れ。

石段に座って空を見上げると、君はすぐ隣に立っている。

僕は、そっと君の肩に触れた。

君も、僕の手を握り返す。


――これでいい。

僕たちは、こうしていられる。

名前も、役目も、屋敷も、もう必要ない。

ただ、同じ時間を生きている。それだけで。


――僕たちは、まだ、ここにいる。

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