第12話
……遅すぎた。
それが、
最初に浮かんだ言葉だった。
境内に立つ主は、
すでに、人の匂いだけではなかった。
冷えすぎた魂。
削れた輪郭。
人と妖の間で、
均衡を失った状態。
……戻れと言っただろう
叱責の言葉は、
今さら意味を持たない。
主は、
こちらを見ていた。
以前のような、
無垢な目ではない。
だが、
まだ、完全には落ちていない。
――中途。
それが、
最も危険な状態だった。
……行かなかった
我慢した
その言葉に、
胸の奥が、
鈍く痛んだ。
……それでも
来た
否定ではない。
確認だ。
主は、
小さく笑った。
……呼ばれた気がした
呼んだ。
確かに、
私は呼んだ。
声にせず、
名も呼ばず。
だが、
境を越えた夜から、
主の中には、
私の側が残っている。
それが、
返事をした。
……愚かだ
それは、
主ではなく、
私自身への言葉だった。
――――――――――
御神体が、
低く鳴る。
境が、
悲鳴を上げている。
このままでは、
主は、
• 人に戻れず
• 妖にもなれず
• ただ、削れて消える
……それだけは
許されぬ
私は、
主の手を掴んだ。
冷たい。
だが、
もう拒絶されない。
……離すな
命令ではない。
願いだった。
……離れない
その返事を聞いた瞬間、
私は理解した。
――もう、引き返せない。
治した時点で、
一度。
今、
二度目だ。
……主
よく聞け
主の額に、
自分の額を触れさせる。
境界を、
完全に閉じるための位置。
……これより先
お前は
人の世に
戻れぬ
主の目が、
揺れる。
恐怖。
だが、
後悔はない。
……それでも
選ぶか
主は、
少し考えてから、
頷いた。
……君がいるなら
その答えは、
あまりにも、
軽くて。
……だから
言っただろう
私は、
苦く笑った。
……愚かだと
――――――――――
私は、
境を引き寄せる。
御神体が、
静かに沈黙する。
村と、
神社と、
人の世の線が、
ゆっくりと、
閉じていく。
代償は、
もう、
支払い始めている。
名。
役目。
居場所。
すべてを、
引き換えに。
……それでも
主の手は、
まだ、温かかった。
――それで、
十分だった。
――――――――――
失われる名
名とは、
境に結ばれた錨だ。
呼ばれ、
記され、
役目に紐づけられることで、
私は私で在れた。
……だが
それを、
手放す時が来た。
――――――――――
御神体の前。
境は、
すでに閉じつつある。
人の世の匂いが、
薄れていく。
主は、
私の手を離さない。
離さぬことが、
救いであり、
枷でもある。
……名を
捨てる
そう告げた瞬間、
空気が、
一段冷えた。
……名前?
主が、
不安そうに聞く。
……呼ばれるためのものだ
それを失えば
私は、
どこにも属さぬ
……消えるの?
その問いは、
正しい。
だが、
完全ではない。
……消えぬ
だが
戻れぬ
屋敷にも。
役目にも。
過去にも。
名を失った妖は、
ただの「在り方」になる。
――――――――――
御神体が、
静かに軋む。
古い呼び名が、
一つ、
剥がれ落ちた。
胸の奥が、
鋭く痛む。
記憶が、
薄皮のように剥がれていく。
祈り。
命令。
縛り。
……っ
声にならない息。
主が、
ぎゅっと手を握る。
……痛い?
……問題ない
嘘ではない。
だが、
楽でもない。
名とは、
痛みを伴って
消えるものだ。
――――――――――
最後の呼び名が、
消えかけたとき。
……待って
主が、
小さく言った。
……じゃあ
君は
なんて呼べばいい?
その言葉に、
私は、
動きを止めた。
名を失うことと、
呼ばれなくなることは、
同義ではない。
だが。
……呼ぶな
反射的に、
そう答えた。
……呼べば
縛りになる
……それでも
主は、
引かなかった。
……君が
ここにいるって
分かる名前が
欲しい
人の理屈だ。
だが、
今は、
それが必要だった。
――――――――――
私は、
一瞬だけ考えた。
役目の名ではない。
屋敷の名でもない。
境に記されない、
呼ばれなくても消えないもの。
……好きに呼べ
そう告げた。
……名ではない
呼び方だ
主は、
少し考えてから、
小さく頷いた。
……分かった
それで、
十分だった。
――――――――――
最後の名が、
完全に消える。
境は、
静まり返った。
私は、
もう
「誰でもない」。
だが。
主の隣に、
立っている。
それだけが、
事実だった。
⸻
――――――――――
人の世の歪み
朝。
人の世は、
何事もなかったように動いていた。
……のはずだった。
――――――――――
母は、
目を覚ましたとき、
違和感を覚えた。
昨夜、
確かに、
倒れかけたはずの子。
それなのに。
……顔色が、いい?
布団の中で眠るその顔は、
少し青白いが、
苦しそうではない。
呼吸も、
穏やかすぎるほどだ。
……夢、だったのかしら
そう思おうとして、
胸の奥が、
ざわついた。
理由は、
分からない。
――――――――――
村。
朝の立ち話。
最近さ、
神社の空気、
変じゃない?
……ああ
冷えるな
季節のせいか?
それにしては、
早すぎる。
誰も、
はっきりとは言わない。
だが、
皆、
同じ方向を避けるようにしていた。
――――――――――
神社。
境内は、
静まり返っている。
御神体は、
もう、
人の側を向いていない。
祈っても、
返りが薄い。
……何かが
いなくなった
そう感じる者もいた。
……何かが
増えた
そう感じる者もいた。
どちらも、
正しい。
――――――――――
私は、
それを
遠くから見ていた。
名を失った身には、
人の世は、
近すぎる。
近づけば、
歪みが広がる。
……想定内だ
自分に、
そう言い聞かせる。
だが。
主は、
私の隣で、
黙って見ていた。
人の世を。
家を。
村を。
母を。
……行かなくていいの?
主が、
小さく聞く。
……行けば
戻れなくなる
……もう
戻れないんじゃない?
その言葉に、
返す言葉はなかった。
――――――――――
その夜。
母は、
夢を見た。
冷たい風。
石段。
御神体。
そこに、
誰かが立っている。
顔は、
見えない。
……誰?
呼びかけても、
返事はない。
ただ、
隣に、
子どもの気配がある。
……あの子?
目を凝らした瞬間、
夢は、
途切れた。
――――――――――
朝。
母は、
神社の方向を見て、
理由もなく、
手を合わせた。
……どうか
何に、
どうか、なのかは、
分からない。
それでも。
境は、
確かに、
揺れていた。
⸻
――――――――――
最終章
境のこちら側
境は、
完全に閉じた。
人の世と、
妖の世の間にあった曖昧さは、
もう、残っていない。
私は、
名を持たぬまま、
ここにいる。
主は、
私の隣にいる。
――それだけが、
残った。
――――――――――
朝でも、
夜でもない時間。
神社は、
もう「祈る場所」ではなかった。
人が来れば、
ただの古い社に見える。
だが、
主が立てば、
境は、
確かに、そこに在った。
……寒くない?
主が、
私を見る。
……問題ない
そう答えると、
主は、
少しだけ笑った。
以前より、
人の熱は薄い。
だが、
失われてはいない。
――完全に
こちらへ来たわけではない。
それが、
唯一の救いだった。
――――――――――
村では、
やがて、
神社は話題にされなくなった。
冷える。
気味が悪い。
何も起こらない。
理由のない噂は、
理由のないまま、
消えていく。
母も、
もう、
神社を見ない。
時折、
夢を見るだけだ。
隣に、
誰かがいる夢を。
――――――――――
……後悔は?
主が、
ふいに聞いた。
……ある
即答だった。
……それでも?
……選び直しても
同じだ
主は、
しばらく黙っていた。
……じゃあ
いいや
その言葉は、
人のものだった。
軽くて、
脆くて、
それでも、
前へ進む言葉。
――――――――――
名は、
結局、
与えられなかった。
呼び方は、
ある。
だが、
それは、
記されず、
祈られず、
縛られない。
主だけが、
知っている。
だから、
それでいい。
――――――――――
境のこちら側には、
未来はない。
人のように老いず、
妖のように朽ちない。
ただ、
在り続ける。
だが。
主が、
隣で息をしている。
それだけで、
世界は、
成立していた。
――――――――――
……行こうか
主が言う。
……どこへ
……分からないけど
ここじゃないところ
私は、
少し考えてから、
頷いた。
境のこちら側には、
道はない。
だが、
歩くことはできる。
――――――――――
こうして。
一人の妖は、
名を失い。
一人の人の子は、
境を知った。
世界は、
何も変わらない。
けれど。
確かに、
ここに、
二つの存在がある。
それだけが、
真実だった。
――了
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