第4話

その日も、僕は神社へ行った。


少し遅くなった。

家を出るとき、母が忙しそうで、

声をかけそびれただけだった。


石段を上がる。


御神体の下に、

君の姿はなかった。


あれ?


胸の奥が、

少しだけざわつく。

こんなことは、初めてだった。


……主


背後から声がした。


振り向くと、

君は、いつもの影の中ではなく、

社殿の柱のそばに立っていた。


どうしたの?

今日は、そっち?


……少し、様子が違うだけだ


声が硬い。

怒っているというより、

張りつめている感じだった。


花札、持ってきたよ


そう言うと、

君は一瞬、唇を噛んだ。


……今日は、遊ばぬ


え?


理由を聞く前に、

境内の空気が変わった。


……主

動くな


君の声が、低くなる。


石段の下から、

草を踏む音。


誰かが、来ている。


――母だった。


僕の名前を呼びながら、

境内を見回している。


こんなところに……

もう、探したのよ


ママ


声を出そうとした、その瞬間。


……黙れ


君の手が、

僕の袖を掴んだ。


強くはない。

でも、振りほどけない。


見るな

こちらを、見るな


母は、

境内を一通り見渡して、

首を傾げた。


……いない?


御神体の下。

さっきまで君が立っていた場所を、

母は、何もない場所として見ている。


そのとき、

はっきり分かった。


――ママには、君が見えていない。


母は、少し不安そうに、

もう一度僕の名前を呼んだ。


ここにいたら、返事をしなさい


……主


君の声が、

わずかに震えた気がした。


……こちらへ来るな

声を出すな


理由は、分からなかった。


ただ、

君の手が、ひどく冷たかった。


しばらくして、

母は諦めたように溜息をついた。


……先に帰ってるから

暗くなる前に、必ず戻りなさい


足音が、

石段を下りていく。


気配が、遠ざかる。


静かになってから、

君は、ゆっくりと手を離した。


……見えなかっただろう


うん

ママ、君のこと見てなかった


その言葉に、

君は目を伏せた。


……それでいい

それが、正しい


その「正しい」は、

なぜか、

嬉しそうには聞こえなかった。


どうして?


君は、

少しだけ間を置いてから、

僕を見た。


……主は

どうして、私が見える


初めて、

真正面から向けられた問いだった。


僕は、少し考えて、

首を傾げる。


分かんない

でも、君がいたから


君の顔から、

何かが抜け落ちたように見えた。


……そうか


それ以上、

何も言わなかった。


その日の花札は、

最後まで、袋から出されなかった。


帰り道、

僕は何度も振り返った。


君は、

いつもの場所に立っていた。


でも、

少し遠くなった気がした。

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