第2話 死神と手品と手違いと
自動ドアが開き、男が入ってきた。
「本社監査部、
薄い唇に酷薄な笑いを乗せ、名刺を差し出した。
名刺を見た千手が呟く「うわ桁違いだわ。インフレ監査だ」
「黙ってて」と私。
万手森は店内を一瞥して、沈黙したカードリーダー、未開封の段ボール、冷蔵庫の上の金庫へと視線を滑らせた。
「開店前日に回線未開通。機器未設定。金庫が冷蔵庫の上。どういうことか理由を説明して」
手違が、反射で元気よく答えた。
「手が届かない高所は安全だからです」
万手森の眉はピクリとも動かない。会話が通じていない証拠だ。
「明日の相談会、マイナンバーカードの読み取りはどうするつもりですか」
千手が「気合で」と言いかけるのを、私は肘でつついて止めた。
そして一歩前に出る。
「回線工事は手配済みです。未完の場合は、申請データの送信は行いません。相談受付と書類点検、預かりだけに絞ります。本人確認は規程の範囲で、責任者承認の例外運用、つまり押印で対応します」
万手森は冷徹に切り返した。
「責任者は誰ですか」
「支店長の私です」と手違が挙手。
「令和の時代に押印とはね。ま、いいでしょう、印鑑を見せてください」
手違の手と肩が下がる。
「……印鑑は金庫にあります。ところが、鍵が所在不明でして」
万手森は迷いなく言った。
「では、明日の開店は延期が妥当ですね」死神の宣告である。
「待ってください」手違が食い下がる。「チラシを五百枚、手書きして配りました。近隣住民の期待が」
「手書きの情熱など、監査項目にはありません」
私は一歩前に出た。
「万手森さん。規程上、印鑑がない場合、拇印での代替が認められるはずです」
万手森が目を細める。
「本人確認と意思確認ができれば」
「本人は目の前にいます。意思にあふれてます、過剰なぐらい」
手違が牡牛のごとく、フンと鼻息を荒げた。
「それなら良いでしょう。開店監査の書類に捺印してください」
万手森はケースから書類を取り出し、手違の面前に突き出した。まるで捜査令状の提示である。
「いますぐですか?」手違がたじろぐ。
「すぐです。私はこの後も予定が詰まっているので」
「実は……」
手違が言いかけたが、私は先に言った。
「朱肉がありません。ただし、朱肉がわりの『赤』があります」
私は手違の真っ赤な指先を指した。
「昨日徹夜で手書きしたチラシ。赤ペンのインクが指に残っています」
万手森は冷静に返す。
「それで拇印が押せますか?」
「判別できるレベルにすればいいんですね」
おもむろに私は、ポケットからトランプを取り出す。
鮮やかな手つきでリフルシャッフルを始めた。アーチ状に曲げたカードが空中で混ざり、シャラシャラと小気味良い音を立てて手の中に納まってゆく。終わったところで、ビッとカードを扇状に広げる。
「手違さん、どれか1枚抜いてください」
ためらいながらも、支店長はカードを選ぶ。
彼が引き抜いたカードは、ハートのエースだった。
千手が「すげぇ、手品だ」と感嘆の声を上げた。
私の指先は狙ったカードを引かせることなど造作もない。
これで場が暖まった。
「手違さん、右の親指をカードの上に置いて」
「えっ、ここへ?」
「はい。力を抜いて」
彼は素直にツルツルの表面へ、親指を軽く押し当てた。
「ここに息をかけてください。フーじゃなくて、ハァーで」
手違が言われるまま息をかける。湿気で指のインクが柔らかくなるはずだ。
「手違さん、拇印を押してください」
雰囲気に飲まれたように、万手森が無言で用紙を差し出す。
手違が震える手で親指を押した。
指を離す。
捺印欄は空白。
用紙の上には何の痕跡もなかった。
死神はゆっくりと口の端を歪めた。
「とんだ時間の無駄でしたね。本社には延期の報告を入れておきます」
書類片手に万手森が、靴音高く出口へ向かってゆく。
「そんなぁ……」
眉を下げる千手の肩に、私は手を置いた。
「大丈夫。これは想定内の一手だから」
万手森の背に向かって、私は声を張り上げた。
「そのときです!」
万手森がビクっと足を止め、振り返った。
凝視しているのは彼だけではない、支店の全員が私に注目している。
私はトランプ二枚を右手に持ち、空中でヒラヒラと踊るように振る。
宙を優雅に舞うチョウが出現した。
「空にモンシロチョウが……」
私は手違の右手首をむんずと掴み、トランプのチョウを右手で追わせる。
「……それを見つけた手違少年が追いかけます」
支店を舞うチョウは、凍り付いたまま立ち尽くす万手森に近寄ってゆく。
「なんということでしょう。チョウが頭にとまりました!」
私は手違の手を取って、死神の頭髪の表面をそっと滑らせる。
「何をする!」
のけぞる万手森に、シレっと私は言った。
「髪にホコリがついてました。おっと、その書類は私にください」
私は万手森の手にあった用紙をもぎ取ると、手違の親指を捺印欄に押し付けた。
紙に残ったのは、くっきりした赤い拇印。
ポマードの油分で溶けた赤インクは、想像以上に鮮明だった。
千手が感心して言った。
「うわ、出たっス……」
「手書きの努力が報われた!」
手違が赤い右手を突き上げ、叫んだ。
万手森は手品のように現れた拇印を見つめ、数秒沈黙した。
そして小さく息を吐く。
「……条件付きで、支店開店を認めます。個人情報の扱いは厳格に。申請送信は回線復旧後。売上・受付は必ず二重チェックしてください」
千手が手を上げる。
「二重チェック、俺やります! 電卓、得意っス!」
「速さより正確さです」と私。
「正確に、素速く!」
「正確だけでお願いします」
帰り際、万手森は冷蔵庫の上の金庫を指した。
「金庫は下ろしてください。落ちたら危険です」
「はい! 手で下ろします!」と千手。
万手森は淡々と言った。
「手以外で下ろす方法があるなら、見たいものですね」
それから私を一瞥し、すぐに視線をはずす。
「総務支援が開店に関わるのは、越権行為。営業に報告しておきます」
頭を櫛で撫でつけながら、死神は去った。
心なしか、支店の空気が明るくなる。
その瞬間。自動ドアが開いた。
「ああ、ここだね。手書きのチラシが入ってたお店」
近所のお年寄りが紙を握りしめて入ってくる。チラシには赤い字で、ぎこちない笑顔のイラストまで描いてあった。
「どういうことですか、開店は明日ですよね?」
私は支店長に問いただした。
「さて、どうしたことやら」手違はオロオロとお年寄りを見つめる。
「字が汚いから、気になって来ちゃったわよ」
老婆が腰を伸ばし伸ばし差し出すチラシを見ると、開店の日付が今日になっていた。
嗚呼、名は体を表す。
「手違いですね。ここ」私はチラシの日付を指でつついた。
「どうしましょう」
「責任者はあなたです。どうするか決めてください」
店の外を見ると、一人、また一人と姿が増えている。みんな、手に手にチラシを持っていた。
「決めました、今から開店します!」
手違支店長は両手を高々と差し上げ、宣言した。
わらわらと押しかけるお客様を迎え、手違の声が弾む。
「いらっしゃいませ!」
千手が叫ぶ。
「うわ、すげえ! 俺でも手が余らねぇ!」
私はトランプをポケットにしまった。
合理的な手配だけでは、顧客は惹きつけられない。泥臭い手書きチラシが、時に最強の呼び水になるのだ。
「手々塚さん! 手伝ってください! 受付が手薄です!」
手違が呼ぶ。
「はいはい、今行きます」
私は袖をまくり直した。
現場には手が要る。手が足りないなら、知恵と工夫で回すしかない。
総務支援室への報告メールには、一行だけ打った。
――「現場、手ごたえあり!」
私は手々塚旅人。トラブルとあらば、どこへでも旅して解決する。
(完)
総務支援・手々塚旅人の手腕が冴える! 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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