第2章:運命の日
一〇月二六日。運命のドラフト会議当日。
午後五時。
秋の日は釣瓶落としに暮れ、窓の外には早くも薄墨色の闇が広がっていた。全国の野球少年たちが、あるいはその親たちが、固唾を呑んでテレビ画面を見守るその時刻、神戸女子大学附属高校の大会議室は、酸素が薄くなるほどの異様な熱気に包まれていた。
並べられたテレビカメラは一〇台を超え、記者やカメラマン、照明スタッフを含めれば五〇人以上の大人がひしめき合っている。彼らが放つ熱気と、機材の排熱、そして特ダネを待ち構える獣のような殺気が、室内の温度を確実に数度上げていた。
その無数のレンズが狙う一点、雛壇の中央に、制服姿の下埜弘子が座っている。
背後にそびえ立つ金屏風には、達筆な筆文字で『祝 ドラフト指名記者会見場』と書かれた看板。天井からは、まだ指名もされていないのに『祝 下埜弘子選手 プロ野球指名おめでとう』という垂れ幕が、今か今かと紐を引かれるのを待っている。学校側の気の早さと、過剰なまでの期待が、弘子の胃を重く圧迫していた。
(……息が詰まる)
弘子は膝の上で拳を握りしめ、表情筋を強張らせて「模範的なアスリートの顔」を作っていた。口角を数ミリ上げ、目は伏せすぎず、かといってカメラを睨みすぎず。数え切れないほどの取材で身につけた、完璧な防具(マスク)だ。
だが、周囲の喧騒とは裏腹に、彼女の心臓は冷たい氷水に浸されたように冷え切っている。
事前に接触してきたスカウトの葛城は言った。「育成契約だ」と。
つまり、今まさにテレビ中継で大々的に流れている「支配下ドラフト」――華々しい契約金と背番号が約束された本指名――で、自分の名前が呼ばれることは万に一つもない。
この一時間、いや二時間は、ただの茶番だ。自分が呼ばれないことを知りながら、さもドキドキしているような顔で待ち続けなければならない、質の悪い演劇なのだ。
大型モニターの中では、司会者が厳かに名前を読み上げている。
『第一巡選択希望選手……』
有名大学のエース、高校通算五〇本塁打のスラッガー、社会人野球の即戦力内野手。彼らの名前が呼ばれるたびに、ワイプ画面に映る彼らは涙を流し、家族と抱き合い、あるいは雄叫びを上げている。
彼らは「本物」だ。実力でその席を勝ち取り、未来を掴み取った選ばれし者たち。
私は違う。
私は「話題性」というチケットを裏口で渡され、客寄せパンダとして檻に入れられるのを待っているだけの珍獣だ。
「……選択終了」
拡張された一六球団すべての支配下指名が終わった。
長い時間が過ぎた。会場の空気が少し緩む。記者たちがざわめき始め、あからさまに伸びをしたり、時計を見たりする者もいる。「そろそろか」「育成でしょ、やっぱり」という囁き声が、弘子の鋭い耳には届いていた。
ここからが本番だ。
『育成選手選択会議』。
一軍の試合には出られない、背番号三桁の練習生を指名する場。華やかなドラフトの光が届かない、過酷な生存競争のスタートライン。
(早く終わって。早く私を呼んで、楽にして)
弘子は祈るような気持ちで、モニターの文字を追った。これ以上、この見世物小屋のステージに座らされているのは限界だった。
同時刻。京都市、洛北未来高等学校。
その一角にある視聴覚室は、神戸の狂騒とは対照的に、埃っぽい静寂に支配されていた。カーテンの隙間から西日が差し込み、舞い上がる塵を照らしている。
集まった記者はゼロ。カメラもゼロ。
いるのは、顧問の教師と、校長、そして部屋の中央に置かれたパイプ椅子に座らされた須藤壮太だけだ。
部屋の隅にある古いブラウン管テレビが、ドラフト会議の様子を砂嵐混じりに映し出している。
「……育成ドラフト、始まるで」
顧問がスマホのゲームをいじりながら、気のない声で言った。
壮太は死んだ魚のような目で、天井のしみを数えていた。一つ、二つ、三つ……。
帰りたかった。今すぐにでもこの場から逃げ出して、自室の布団に潜り込みたかった。
どうせ指名されるわけがない。調査書が届いたといっても、それは球団が「一応検討リストに入れた」というだけの手続き上の話だ。あの109失点の男を、まともな神経をした球団が指名するはずがない。あれはネットのおもちゃにされただけの、ただの恥晒しなのだから。
「第一巡目……」
アナウンスが淡々と選手名を読み上げていく。
聞いたこともない独立リーグの選手や、無名の大学生の名前が並ぶ。
『新潟セブンズ、選択希望選手……』『静岡ジュビパルス、選択希望選手……』
新球団が増えたことで指名枠は広がったはずだが、それでも壮太の名前は呼ばれない。
一巡、二巡、三巡……。
(よかった……)
壮太は密かに、肺の奥から安堵のため息を吐き出した。
これでいい。指名漏れだ。
顧問には「残念でしたね」と頭を下げて、家に帰ろう。そして二度と外に出ない生活に戻るんだ。親には呆れられるだろうが、世間の嘲笑の的になるよりはずっとマシだ。
そう思い、パイプ椅子から腰を浮かせかけた時だった。
「第四巡目……」
各球団が次々と「選択終了」を宣言していく中、新球団である京都レッドサンガの番が回ってきた。
『京都レッドサンガ、選択希望選手、第五巡目』
まだ取るのか、と顧問が顔を上げた。
モニターに映る球団のテーブルには、あのスカウト、葛城が座っている。彼は不敵な笑みを浮かべ、手元のボタンを押したように見えた。
『須藤 壮太。投手。洛北未来高校』
……え?
壮太の思考が完全に停止した。
静まり返った視聴覚室に、無機質なアナウンスの残響だけが虚しく響く。
数秒の空白の後、顧問が「うおっしゃあああ!!」と奇声を上げ、パイプ椅子を蹴倒して立ち上がった。
校長が慌ててどこかへ電話をかけ始める。「はい、はい、指名されました! 至急、横断幕を!」
「壮太!やったぞ!5位や!育成5位指名や!」
顧問が壮太の肩を乱暴に揺さぶる。シェイクされる視界の中で、テレビ画面に表示された自分の名前だけが、呪いの文字のようにこびりついて離れない。
呼ばれた。
本当に、呼ばれてしまった。
あの悪夢のような109失点の男が、プロ野球選手になる?
もう、あの安全な四畳半には戻れない。好奇の目に晒され、嘲笑され続ける未来が確定したのだ。
絶望で視界が揺らぐ。吐き気が込み上げる。
だが、神様――あるいは悪魔――は、さらに残酷な追撃を用意していた。
「お、まだ終わらんぞ。続けて6位や」
顧問が画面を指差す。
同じ球団、京都レッドサンガの指名。
壮太はどうでもよかった。誰が来ようと関係ない。自分の人生が終わったことの方が重大だ。
ぼんやりと、遠くで響く雷鳴のように、アナウンスの声だけが鼓膜を震わせる。
『京都レッドサンガ、選択希望選手、第六巡目』
『下埜 弘子。捕手。神戸女子大学附属高校』
ヒュッ。
壮太の喉から、空気が抜けるような奇妙な音が漏れた。
呼吸が止まった。心臓が一拍、大きく跳ねて停止した。
全身の血液が一瞬で凍りつき、指先から感覚が失われていく。世界から色が消えた。
「お?これ、あの女子プロ野球の子ちゃうか?すげえ、お前と同期やんけ!話題性抜群やな!」
(……女子高校野球だろ。適当なこと言ってんじゃねえよ)
この期に及んでもカテゴリの区別すらついていない顧問の無知さに、壮太は訂正する気力も湧かなかった。
興奮して背中をバンバン叩いてくる顧問の手の感触も、今の壮太には痛みすら感じられない。
ただ、視界の端が黒く塗りつぶされ、テレビ画面の「下埜弘子」の文字だけが、警告色のように赤く明滅して見えた。
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ。
なんで。
なんで、よりによってここなんだ。
一六球団もあるのに。育成だけでも一〇〇人近く指名されるのに。
どうして、俺と同じ球団に、あの「悪魔」が来るんだ。
ガタガタガタッ。
パイプ椅子が不快な音を立てて揺れる。壮太の震えが止まらないのだ。
引きつった顔で画面を凝視する。
公園の夕暮れ。腹部に食い込む蹴りの感触。見下ろす冷たい目。嘲笑う声。「あんたなんか要らない」という拒絶の言葉。
あの日のトラウマが、蓋をこじ開けて濁流のように脳内を駆け巡る。
「あ……あ、あ……」
声にならない悲鳴。
プロ野球?違う。
ここは処刑台だ。俺は、自分を殺しに来る死刑執行人と同じ檻に入れられたんだ。
逃げ場のない檻の中で、かつての捕食者と二人きりにされる。それは死よりも深い絶望だった。
神戸の会場も、一瞬だけざわついた。
京都レッドサンガの指名。
5位、『須藤 壮太』。
「……誰だ?」
「ああ、あの109失点の」
「炎上商法かよ。京都も露骨だな」
「実力じゃなくて話題作り枠か」
記者たちの失笑が漏れ聞こえる。だが、記者席の後方では、少し事情の違う会話が交わされていた。
「おい、マジかよ。京都、あいつ獲ったのか」
「え、何ですか?ただの炎上枠でしょ?」
「いや、聞いた話だと、あの109失点の試合、バックネット裏に他球団のスカウトも何人かいたらしいぞ」
「マジですか?あんな晒し投げを見に?」
「打撃センスと地肩は隠れた逸材だって噂だ。下位でひっそり獲ろうとしてた所があったのを、京都が感づいて念のために先に押さえたんじゃないか?」
その囁きは、ひな壇に座る弘子の耳にも鋭く突き刺さった。
(……念のため?)
笑っていられなかった。
その顔から、一気に血の気が引いていた。作り笑いの仮面が剥がれ落ちそうになるのを、必死の理性で繋ぎ止める。
(須藤……壮太?)
心臓が早鐘を打つ。
まさか。嘘でしょう。
彼が指名された?私と同じ球団に?
しかも、まだ私の名前は呼ばれていない。
彼は「5位」だ。競合を恐れて、確保された「5位」。
私はまだ呼ばれていない。
混乱する頭に、追い打ちをかけるようにアナウンスが響いた。無慈悲な序列の宣告。
『京都レッドサンガ、選択希望選手、第六巡目』
『下埜 弘子。捕手。神戸女子大学附属高校』
その瞬間。
バシャバシャバシャバシャッ!!
視界が真っ白になるほどのフラッシュが炸裂した。
怒号のような歓声。割れんばかりの拍手。
「歴史的瞬間だ!」「女性初のプロ野球選手誕生!」「こっち向いてください!」
弘子は、反射的に練習通りの「完璧な笑顔」を貼り付け、深く一礼した。
だが、テーブルの下で握りしめた拳は、爪が掌に食い込み、血が滲むほど震えていた。
6位。
育成6位。
私が、6位。
彼が、5位。
歓喜の渦の中で、弘子の内臓は冷たく焼け付くような感覚に襲われていた。
あの109失点の、三年間引きこもっていた、私が壊したはずの男。
野球を捨て、逃げ出したはずの敗北者。
彼の方が、私より上の順位(カチ)なのか。
他球団のスカウトですら、彼を「逸材」としてマークしていたというのか。
甲子園での本塁打も、キャプテンとしての統率力も、血の滲むような努力も。
男子の「スローボール投手」という素材にすら劣るというのか。
プロのスカウトの目には、私の積み上げてきた全てが、あのブランクだらけの男以下だと映ったのか。
(……ふざけないでよ)
罪悪感?贖罪?
そんな殊勝な感情は、ドロドロとした黒い熱に塗りつぶされていく。
男女の壁。生物としての絶対的な差。
それを、こんなにも残酷な数字の並びで突きつけられるなんて。
「下埜選手!今の気持ちを一言!」
「女性初の快挙です!笑顔をください!」
マイクを突きつけられ、弘子はカメラに向かって微笑んだ。
その目は、氷点下の冷たさを宿していた。心の中では、悔しさと屈辱で叫び声を上げていた。
「……はい。評価していただき、光栄です」
嘘だ。
こんなの、ただの屈辱だ。公開処刑だ。
翌日。
スポーツ紙の一面は、下埜弘子の笑顔で埋め尽くされていた。
『女子プロ野球のジャンヌ・ダルク、誕生』
『史上初!男たちの園に挑む美しき捕手』
『京都の女神、育成6位から下克上へ』
その紙面の片隅、モノクロの小さな記事に、壮太の名前があった。
『109失点男もまさかの指名。京都、話題性重視のドラフトか』
『珍事の主役、プロへ』
洛北未来高校の学習センターで、壮太はその新聞を広げ、青ざめた顔で固まっていた。
「……同じ、球団」
文字を見るだけで、胃液がせり上がってくる。
育成6位、下埜弘子。
逃げ込んだ先に、まさか彼女がいるなんて。
しかも捕手だ。バッテリーを組む可能性がある。避けて通れないポジションだ。
「嫌だ……行きたくない……」
「今さら何を言うとるんや!」
顧問が新聞をひったくり、満面の笑みで壮太の背中を叩いた。
「ええか壮太。お前は運が良い。注目度ナンバーワンの下埜選手と同期や。彼女のバーター……いや、セットで扱われれば、お前もテレビに出られるかもしれんぞ!『幼馴染バッテリー』とか売り出せば一発や!」
地獄だ。
テレビに出る?彼女とセットで?
それはつまり、彼女に殴られたあの日の記憶を、毎日突きつけられるということだ。
世間は盛り上がるかもしれない。だが、壮太にとっては公開拷問でしかない。
彼女はスターで、自分は引き立て役のピエロ。
いや、それだけならまだいい。
もし、顔を合わせたら。
もし、またあの冷たい目で見下されたら。
あるいは、またあの拳で殴られたら。
想像するだけで、壮太の歯の根が合わない。カチカチと音を立てて震える。
かつて剛速球を投げたその指は、今や恐怖でスマホすら上手く握れないほどに萎縮していた。
逃げ場のない「プロ野球」という名の檻へ。
一人は屈辱にまみれた女王として、一人は怯える敗残兵として。
二人の囚人を乗せた列車が、ゆっくりと、しかし確実に動き出した。
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1試合109失点男と天才少女の野球グラウンド @Samslide
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