第1章:レジェンドの戯れと、悪魔の招待状
一二月某日。水道橋ドーム。
師走の寒空の下、白いドームの内部は、季節外れの熱気に包まれていた。
『女子高校野球選抜 VS プロ野球レジェンドOB』。
近年、女子野球の普及活動の一環として恒例となりつつあるエキシビションマッチだ。
人工芝の匂いと、独特の反響音。五万人を飲み込む巨大な空間の中心にあるマウンドに立っているのは、背番号51。
日米通算4000本安打、メジャー殿堂入りを果たした伝説の外野手、鈴木ロクローだ。
引退して数年が経つというのに、その体型は現役時代と変わらず、ユニフォームの着こなしも研ぎ澄まされた日本刀のように美しい。高校時代は投手として甲子園に出場し、ドラフトでも投手として指名された彼が、この日限定でマウンドに上がっているのだ。
「……速い」
ネクストバッターズサークルで、下埜弘子は思わず息を呑んだ。
50歳を超えているはずなのに、直球は140キロ近く出ている。何より、ボールの伸びが違う。ベース盤の上でホップするかのような軌道に、女子選抜のバッターたちが面白いようにバット空を切らされ、空振りを奪われていく。
キャッチャーミットがパァン!と乾いた音を立てるたびに、ドーム全体がどよめく。
だが、弘子は燃えていた。
甲子園優勝捕手として、このチームの四番に座る自分だけは、簡単に終われない。「女子野球」の意地を見せなければならない。
アナウンスが名前を呼ぶ。弘子は打席に入った。
マウンド上のロクローと目が合う。サングラスの奥の瞳が、ニヤリと笑った気がした。
初球。
インコースの直球。女子なら腰が引けるような厳しいコース。
だが、弘子は身体を回転させ、最短距離でバットを出した。肘を畳み、ボールの内側を叩く。
カキンッ!
快音が響く。打球は三遊間を鋭く破り、レフト前へ転がった。
ドームがどよめき、歓声に包まれる。
この日、弘子は神がかっていた。
第一打席でレフト前ヒット。
第二打席では、元セーブ王が投じた落差のあるフォークボールを膝元で拾い、センター前へ弾き返した。
そして最終回、再びマウンドに戻ったロクローから、ライト線への強烈なツーベースを放った。
3打数3安打。猛打賞。
往年の名選手たちを相手に、堂々たる成績だ。
しかし。
試合終了後、スコアボードに刻まれた数字は、あまりにも残酷な現実を突きつけていた。
1 - 12
女子選抜の完敗。いや、惨敗だった。
弘子がどれだけ孤軍奮闘し、ヒットを積み重ねても、試合の勝敗という点では勝負にすらなっていなかった。
女子投手たちが投げる120キロ台のボールは、引退して腹の出たOBたちにとっては「絶好のバッティング練習」でしかなかったのだ。
金属バット特有の鈍い音とともに、外野の頭を軽々と越され、内野の間を鋭く抜かれる。柵越えこそ少なかったものの、終わってみれば一方的な虐殺劇。
近年、このイベントの知名度が上がるにつれて、OBチームに参加する「元メジャーリーガー」や「引退したての名選手」が増え、ガチ度が上がっていることも背景にあった。
「ゲームセット!」
整列。
本来なら、大差で負けた悔しさに涙を流すべき場面かもしれない。
だが、チームメイトたちの顔にあるのは、憧れのスター選手と試合ができた喜びと、ミーハーな興奮だけだった。
「ロクローさん!写真撮ってください!」
「サインお願いします!ボール持ってきたんです!」
試合後のグラウンドは、即席のファン感謝デーと化していた。
弘子もまた、その空気に抗えなかった。
悔しい。大敗したことが、野球人としてどうしようもなく悔しい。
けれど、目の前にあの「世界のロクロー」がいるのだ。子供の頃からテレビで見ていたスーパースターが、すぐそこにいる。
「ナイスバッティング」
声をかけられ、弘子は弾かれたように顔を上げた。
ロクローが、サングラスを外して微笑んでいる。
「あ、ありがとうございます……!」
「君、インサイドの捌きが上手いね。身体の使い方が理にかなってる。男子に混じっても、技術なら十分プロで通用するよ」
心臓が止まるかと思った。
お世辞だ。イベントを盛り上げるためのリップサービスだ。エキシビションの余興の一環だ。
頭の冷静な部分はそう警告している。
わかっているのに、その言葉は甘い毒のように、弘子の胸の奥深くにじわりと染み込んでいった。
(プロで……通用する?)
カメラに向かって、ロクローと並んでピースサインをする。
マイクを向けられ、「最高の思い出になりました!一生の宝物です!」とコメントする。
その笑顔の裏で、弘子の中に小さな、しかし消えない火種が生まれていた。
もしかしたら。
私なら、いけるんじゃないか?
あのロクローに認められたんだから。このバットコントロールなら、パワーの差を補えるんじゃないか?
それが、全ての過ちの始まりだった。
レジェンドの何気ない一言が、少女の運命を大きく狂わせる歯車を回し始めたのだ。
数日後。
夢のような時間は終わり、冷たい現実が容赦なく押し寄せていた。
神戸市内、閑静な住宅街にある一軒家。
そのリビングで、下埜弘子はローテーブルに広げられた数枚の資料を食い入るように見つめていた。
「弘子、どうするの?弁護士さんを通じて、またお父さんから連絡があったわ。『プロなんて妄言は捨てて、今からでもゴルフかテニスに転向しろ』って」
キッチンからコーヒーを運んできた母・佳代子が、苦い顔で言った。
父とは、弘子の野球を巡る激しい対立が原因で、中学の時に離婚している。
『稼げないスポーツはやる価値がない』『お前の才能ならゴルフで稼げる』と断じ、自分の成功体験だけを正義とする大企業社長の父。そんな彼から逃げるようにして、母と二人で家を出たのだ。
「……まだ言ってるの?もう関係ないのに」
「あなたのことが心配なのよ、あの人なりにね。『女子野球に未来はない』って、データ付きの資料まで送ってきたわ」
弘子は唇を噛んだ。
悔しいが、父の言う「現実」の一部は正しい。女子野球の市場規模は小さく、環境も男子には遠く及ばない。
でも、だからこそ負けたくない。父の敷いたレールの上で稼ぐ人生なんて、死んでも御免だ。
「……大学や独立リーグの資料もあるけど、どうする?」
母が心配そうに覗き込む。
テーブルに並んでいるのは、女子野球部のある大学のパンフレットだけではない。
『東京六大学野球連盟・特別規定に関する資料』
『四国アイランドリーグplus・トライアウト要項』
『ベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)』
そこにあるのは、男子の領域だ。
かつて「ナックル姫」と呼ばれた選手や、六大学でマウンドに立った女性投手がいたように、そこは決して女性にとって未知の領域ではない。先駆者たちが切り拓いてきた道だ。
甲子園での本塁打記録を受けて、いくつかの大学や独立リーグ関係者が「史上初の女性選手」として受け入れをほのめかしてきていた。
ロクローの言葉が、呪いのように頭を回っている。
『プロでも通用するよ』。
あれを真に受けて、男子の中に飛び込む?
冷静になればわかる。あの試合、OBたちは手加減していた。守備範囲も狭かった。だからヒットになっただけだ。
現役の、脂の乗った男子プロに勝てるわけがない。
「……六大学に行っても、独立リーグに行っても、結局は比較されるだけよ」
弘子は資料を指先で弾いた。
先駆者がいるからこそ、世間の目は厳しい。「二番煎じ」として見られるか、あるいは「あの選手を超えられるか」という興味本位の視線に晒されるか。
純粋に野球がしたいだけなのに、どこへ行っても「女性選手としての価値」を値踏みされる未来が見える。
(……わかってる。わかってるけど……)
まだ、夢を見ていたかった。
あの水道橋ドームの歓声。レジェンドと対峙したヒリヒリするような時間。
あれを知ってしまった後では、女子野球という安全な「箱庭」に戻ることが、どうしようもなく退屈で、色褪せたものに思えてしまうのだ。
もっと高いレベルで、もっとヒリヒリする場所で、自分の力を試したい。たとえそれが、破滅への道だとしても。
父を見返したい。私が選んだ道が、間違いじゃなかったと証明したい。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
翌日。
神戸女子大学附属高校、応接室。
放課後、顧問に呼び出された弘子は、革張りのソファに深く沈み込んでいた。
対面に座っているのは、強張った表情の顧問と、仕立ての良いスーツを着た鋭い目つきの男。
名刺には『京都レッドサンガスカウト部葛城』とある。
今年からプロ野球に参入したばかりの、新興球団のスカウトだ。
「単刀直入に申し上げます。下埜弘子さん、我が球団はあなたを指名したいと考えています」
葛城は事務的な口調で切り出した。
隣の顧問が「おお……!」と声を漏らす。だが、弘子の表情は凍りついたままだ。
「え……私を、ですか?独立リーグとかじゃなくて……」
「はい。もちろん支配下登録ではありません。育成契約です。ですが、独立リーグや大学とは意味が違う。NPBのドラフト指名となれば、史上初です」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
独立リーグではない。NPBの球団だ。たとえ新規参入とはいえ、正真正銘の「プロ野球」だ。
葛城は淀みなく続けた。
甲子園での活躍。キャプテンとしての統率力。先日のOB戦で見せたロクローからの3安打。
「それから、我々が最も評価しているのは、あなたのその『品行方正』さです」
「……え?」
「身辺調査も済ませてあります。学業成績優秀、生徒会役員、ボランティア活動への参加。素行不良の噂は一切なし。まさに模範的なアスリートだ。プロ野球選手にとって、実力と同じくらい『クリーンなイメージ』は重要ですからね」
葛城はにこやかに言ったが、弘子の背筋には冷たいものが走った。
品行方正。
模範的。
その言葉が、鋭い刃物のように胸をえぐる。
違う。私はそんなに綺麗な人間じゃない。
弘子の脳裏に、数々のニュースがフラッシュバックする。
未成年喫煙で謹慎になった甲子園球児。
暴力事件で逮捕された主力選手。
そして最近では、3度の不倫が発覚して球界を追放されたかつての名選手。
ネットの炎上は恐ろしい。一度火がつけば、過去の些細な過ちまで掘り起こされ、本人だけでなく家族や学校まで晒し者にされる。
(もし、プロに入ってから『あの過去』がバレたら……?)
いじめ。暴力。一人の少年を不登校に追い込んだ事実。
それは喫煙や不倫よりも、今の世の中では致命的なスキャンダルになり得る。
「聖人君子」として売り出された後にそれが発覚すれば、その落差で間違いなく大炎上する。球団に迷惑をかけ、女子野球全体の顔に泥を塗ることになる。
怖い。
後でバレて地獄を見るくらいなら、今ここで、このスカウトに知ってもらわないと。
私が「品行方正」なんて嘘だと、告白しなければ。
「……あの、お話は嬉しいんですが」
弘子は膝の上で制服のスカートを強く握りしめた。
震える声で、意を決して口を開く。
「私、あなたが思っているような人間じゃありません。『統率力』とか『品行方正』とか……そんな立派なもの、私にはありません」
「ほう?」
「私は……小学生の頃、気に入らないことがあって、チームメイトを公園に呼び出して、一方的に暴力を振るいました。その子が心身ともに壊れて不登校になるまで追い詰めて、学校でもいじめを主導して……一人の男の子の人生を完全に狂わせたんです」
一気にまくし立てた。
隣で顧問が「おい、下埜!何を言って!」と絶句し、慌てて制止しようとする。
これでいい。これで話はなくなる。
プロにはなりたい。喉から手が出るほどなりたい。でも、その資格がないと自分自身が叫んでいるのだ。
そして何より、後から来る「炎上」の恐怖から逃れたかった。
弘子はうつむき、自分に下される「不合格」の烙印を待った。軽蔑の眼差しを待った。
しかし。
葛城は、面白そうに口角を上げただけだった。
「……それが、何か?」
「え?」
「小学生の喧嘩でしょう?警察沙汰になって前科がついているわけでもない。それに、過去の過ちをそうやって正直に告白できる。その誠実さが素晴らしい」
葛城は身を乗り出し、獲物を見る目で弘子を見据えた。
「それに、その『激情』こそがプロには必要なんです。優等生なんてつまらない。過去に闇を抱え、罪悪感に苦しみながらもマウンドに立つ……実にドラマチックだ。ファンはそういう『人間臭いストーリー』を好みます」
まるで悪魔の囁きだった。
懺悔さえも「コンテンツ」として消費され、罪悪感すらも「プロとしての資質」に書き換えられる。
断る理由は封じられた。
「育成ドラフトでの指名を確約します。……まさか、この期に及んで断ったりはしませんよね? これはあなたにとってもチャンスだ。過去を償いたいなら、プロという最高の舞台で結果を出し、その影響力で社会貢献でもすればいい。逃げるよりも、その方が建設的でしょう?」
しかし、「償い」という言葉は、弘子の心の最も弱い部分に突き刺さった。
プロになって、成功して、彼に謝罪できるような人間になればいいのか?
それは傲慢な自己正当化かもしれない。だが、ロクローに認められたという自負、父を見返したいという執念、そして罪悪感の板挟みになった今の弘子には、その蜘蛛の糸にすがる以外の選択肢が見えなかった。
「……プロ志望届、出していただけますね?」
弘子は震える手で、小さく頷いた。
憧れの場所への切符は、どこか鉄の味がした。
逃げ場は、どこにもなかった。
数日後。
京都市内の片隅にある、洛北未来高等学校の学習センター。
週に一度のスクーリング日。誰もいない教室に、須藤壮太は呼び出されていた。
「……はい、これ」
あの日、「109失点」のベンチでヘラヘラしていた顧問の教師が、一枚の紙をペラリと机に置いた。
『プロ野球志望届』。
壮太は目を疑った。
「先生、これ……何のギャグですか?」
「ギャグちゃうわ。お前んとこにな、調査書が来とるんや」
「調査書?」
「ああ。京都レッドサンガっていう新球団からな。『須藤壮太君の潜在能力に興味がある』ってよ」
潜在能力。
100点取られても投げ続けたあの晒し投げを、向こうは「タフネス」と評価したのか、それとも「鈍感」と評価したのか。どちらにせよ狂っている。
あの試合の後、ネットでは壮太をおもちゃにするスレッドが乱立した。『現代の晒し首』『公開処刑』。
そんな男に興味を持つなんて、どんな悪趣味な球団だ。
「先生、俺、就職も進学もしないって言いましたよね。卒業したら、また部屋に戻るつもりなんで」
「アホか!一生ニートする気か!」
顧問は面倒くさそうに頭を掻き、本音を漏らした。
「ええか須藤。お前が進路未定のまま卒業したら、俺の指導力不足になるんや。学校の評判も下がる。でもな、お前が『プロ野球選手』になったらどうや?あの109失点も『プロへの布石だった』って美談になる。学校も宣伝になる。俺もボーナスが出るかもしれん。三方良しやないか」
「俺にとっては地獄ですけど」
「地獄でも何でも、金貰えるならええやろ。どうせお前、他にやることないんやろ?行くとこもないんやろ?」
図星だった。
壮太の目の前には、白い霧がかかったような未来しかない。
大学に行く学力も金もない。
普通に就職しようにも、対人恐怖症で面接など受けられるはずがない。コンビニのバイトすら、レジで客と目が合うのが怖くて三日で逃げ出した。
このまま卒業すれば、再びあの四畳半の牢獄へ戻るだけだ。
親の脛をかじり、社会の隅っこで息を潜めて生きていく未来。
「……俺なんかが、プロなんて」
「育成や、育成。月給十万そこそこのバイトみたいなもんや。二、三年やってクビになったら、その時は『元プロ』の肩書きで焼肉屋でもやればええ」
顧問はボールペンを壮太の前に放った。
「書け。これは命令やない、お前への最後の慈悲や」
壮太は震える手でペンを握った。
脳裏に浮かぶのは、あの日の公園。弘子の冷たい目。
そして、ネットに溢れる自分の無様なピッチング動画。
(どうせ、どこに行っても笑い者だ)
プロに行けば、もっと多くの人間に笑われるだろう。
でも、ここ以外に「お前が必要だ」と言ってくれる場所(たとえそれが珍獣としてだとしても)は、世界中のどこにもなかった。
笑い者にされることと、誰からも忘れ去られること。どちらがマシか。
究極の選択の中で、壮太は前者を選んだ。
壮太は、まるで遺書を書くような気持ちで、志望届に名前を記した。
まさか、その行き先に、自分が最も恐れる「彼女」がいるとは知らずに。
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