1試合109失点男と天才少女の野球グラウンド
@Samslide
プロローグ 対照的な幼馴染
京都府運動公園サンシャイン野球場。
七月の殺人的な日差しが、逃げ場のないグラウンドを灼熱のフライパンのように熱していた。陽炎が揺らめき、景色が歪んで見えるほどの酷暑の中、バックスクリーン横のスコアボードには、現実とは思えない異常な数字が白々と晒されていた。
スコアボードの得点経過欄は、もはや二桁の数字を表示する枠すら足りていない。本来なら整然と並ぶはずの数字の列は破綻し、手書きのパネルがガムテープで無理やり貼り付けられている。そこには、高校野球の歴史において決して許されないような、暴力的なまでの現実が刻まれていた。
109 対 2
五回コールドゲーム。
京都府高等学校野球大会、一回戦。
部員不足で廃部寸前だった私立通信制・洛北未来高等学校対、府立の古豪校の試合は、地方ニュースの枠を超え、ネットの海を駆け巡る記録的な大敗をもって幕を閉じた。
「整列!」
審判の声が、遠い世界からの響きのように鼓膜を打つ。
マウンドに立っていた須藤壮太は、膝に手を突き、乾ききった唇を舌で舐めた。汗はとうに枯れ果て、肌には塩の結晶が浮いている。
五回で一〇九失点。
計算上、一イニング平均二〇点以上を取られたことになる。炎天下、守備時間は実に四時間を超えた。永遠に続くかと思われた守備の時間は、壮太の精神を摩耗させ、思考を奪い去っていた。
それでも、壮太は最後までマウンドを降りなかった。いや、降りられなかったのだ。
ベンチに控え投手など一人もいない。そもそも部員は九人ギリギリ。ライトを守る一年生は熱中症寸前でフラフラしており、一人が倒れればその瞬間に没収試合となる。そんな薄氷を踏むような極限状態の中、彼はただひたすらに腕を振り続けた。
(やっと、終わった……。やっと、帰れる……)
整列のためにホームベースへ向かう足取りは重い。相手チームのベンチからは、同情を通り越して困惑と、ある種の気味悪さを感じるような視線が向けられている。
無理もない。壮太が投げていたのは、全て山なりのスローボールだったからだ。
時速八〇キロにも満たない、キャッチボールのような緩いボール。それを相手打者はバッティングセンターの100円ゲームのように打ち返し続けた。
打球が飛ぶたびに、悲劇が起きた。
外野手が捕球を試みれば、グラブの土手に当ててボールを後逸し、内野手がゴロを処理しようとすれば、股の間をトンネルする。カバーに入った選手同士が激突し、送球は明後日の方向へ飛んでいく。
それは野球というよりは、質の悪い喜劇だった。
だが、壮太にはそうするしかなかった。
彼は知っていたのだ。自分が本気を出せばどうなるかを。
少しでも速い球を投げれば、野球未経験の素人捕手が捕球できずに突き指をし、あるいは身体に受けて怪我をし、試合が続行不可能になることを。
だから彼は、自らの才能を封印し、プライドを捨て、ただひたすらにサンドバッグになることを選んだ。
しかし、皮肉なことに、洛北未来高校の得点「2」は、全て四番・ピッチャーである壮太が放った二打席連続のソロホームランによるものだった。
マウンドでは無気力なスローボールを投げ続け、打席に入れば鬱憤を晴らすかのようにスタンド上段へ叩き込む。
その歪で奇妙な光景は、観客の失笑を買い、同時にネットニュースの格好のネタとして、「リアル野球盤」「一人だけガチ勢が混じってる」と拡散され始めていた。
「須藤、ようやった!お前は伝説や!」
ベンチに戻ると、顧問の教師が冷えたタオルを片手に駆け寄ってきた。その顔には、勝負に負けた悔しさなど微塵もなく、むしろ安堵と興奮の色が浮かんでいる。
「いやあ、誰も怪我させんでホンマによかったわ。お前が変に気合入れて投げてたら、あいつら突き指じゃ済まんかったやろ?そしたら保護者からのクレーム処理で俺の夏休みが潰れるとこやった。賢い選択やったで、マジで」
壮太を見ているようで、見ていない。この男が見ているのは、自分自身の保身と、面倒事のない平穏な夏休みだけだ。生徒の心の傷など、彼の関心事ではない。
壮太は無言でその手を振り払いたかったが、気力さえ残っていなかった。
大人はいつだってそうだ。もっともらしい理由をつけて、正しいことをしているような顔をして、一番大事なものを踏みにじる。
灼熱のグラウンドに刻まれた「109」という数字だけが、網膜に焼き付いて離れない。
それは、彼の惨めな青春の墓標のようだった。
*
同日、同時刻。
兵庫県西宮市の甲子園球場。
地響きのような歓声が、銀傘を震わせていた。
全国高等学校女子硬式野球選手権大会、決勝戦。
決勝戦だけ甲子園球場で開催されるようになった時代。女子高校球児たちの聖地で、新たな歴史が生まれようとしていた。
「入ったァァァーーーッ!文句なし!ラッキーゾーンなど無関係のレフトスタンド中段への特大アーチ!」
実況アナウンサーが絶叫する中、ダイヤモンドを一周するのは、神戸女子大学附属高校の主将であり、四番・捕手の下埜弘子だ。
一七〇センチ近い長身と、しなやかな筋肉を包んだユニフォーム。三塁ベースを蹴った彼女は、ヘルメットを飛ばす勢いでベンチに向けて満面の笑みでガッツポーズを作った。
「やったー!みんな見た!?最高!!」
三対三の同点で迎えた九回表。
無死一、二塁の場面で放たれたその打球は、高校生離れした金属音を残し、放物線を描いてスタンドへと吸い込まれた。
大会通算七本目の本塁打。
女子野球の常識を覆す、圧倒的なパワー。
「キャプテン!ロコちゃん、すごすぎ!」
「一生ついていくー!!」
ホームベース上でチームメイトにもみくちゃにされながら、弘子は誰よりも大きな声ではしゃいでみせた。
仲間と抱き合い、飛び跳ね、涙を流す後輩の頭をくしゃくしゃに撫でる。
「あんたたちが塁に出てくれたからだよ!私一人じゃ絶対打てなかった!ありがとう!」
太陽のような笑顔。底抜けの明るさ。
スタンドには「ロコちゃん」「女子野球の至宝」と書かれた横断幕が揺れ、カメラのフラッシュが彼女一人に集中する。
誰からも愛される、完璧なキャプテン。
その姿に一点の曇りもなかった。
――バスの車内は、優勝の余韻でカラオケボックスのような騒ぎになっていた。
弘子もマイクを握り、率先して場を盛り上げた。流行りの曲を歌い、変顔をして見せ、チームメイトを爆笑の渦に巻き込む。
「ロコちゃんがキャプテンで本当によかった!」
「プロ行けるんちゃう?女子プロ野球も盛り上がるでこれ」
「えー、私なんか無理無理!彼氏作るほうが先決だって!」
弘子はケラケラと笑い返し、マイクを後輩に渡すと、座席に深く座り込んだ。
ふと、窓の外へ視線を向ける。
チームメイトたちがSNSのトレンド入りに夢中になっている隙に、彼女の顔から、仮面が剥がれ落ちた。
スッ、と。
体温が一瞬で数度下がったかのような、無機質な瞳。
さっきまでの弾けるような笑顔は、筋肉の微動だに感じさせない能面へと変わっていた。
(七本?それがどうしたの)
男子なら、もっと飛ばす。男子なら、あの程度の当たりは外野フライだ。
称賛の言葉には、いつも見えない括弧がついている。
『(女子にしては)凄い』『(女子野球の中では)至宝』。
その枕詞がつくたびに、積み上げてきた血の滲むような努力が、「女子枠」という狭い箱の中に丁重に押し込められていく気がした。
メディアが求めているのは、野球選手としての「下埜弘子」ではない。「可愛くて野球もできる女子高生」という、消費しやすいコンテンツだ。
みんなはいいよね。この「女子野球」という箱庭の中で、純粋に幸せを感じられて。
でも、私は違う。もっと遠くへ、もっと高くへ行けるはずなのに、世界が勝手に天井を決めてくる。
その時、手元のスマホに通知が来た。
何気なく開いたニュースアプリ。地方ニュースの片隅にある、小さな記事。
『京都で珍事。一試合109失点の記録的大敗』
その見出しの下に、小さく、しかし見覚えのありすぎる名前があった。
敗戦投手:須藤 壮太
弘子の能面のような顔が、ピクリと歪んだ。
封印していたはずの過去の扉が、軋んだ音を立てて開いたような気がした。
夜。京都市内の須藤家。
壮太は自室のベッドに寝転がり、死んだ魚のような目でスマホの画面をスクロールしていた。
「壮太、お疲れ様。よく頑張ったわねえ。怪我しなくてよかった」
一階からは母親の能天気な声が聞こえてくる。この家はいつもそうだ。腫れ物に触るように、過剰に優しい。彼が中学三年間、部屋から一歩も出なかったあの日々を繰り返さないよう、必死に機嫌を取っているのだ。それが余計に惨めだった。
画面の中では、今日の「109失点」が面白おかしく拡散されている。
『リアル野球盤かよ』『ピッチャー可哀想すぎw』『いやホームラン二本打ってるの草』
嘲笑。同情。ネタ扱い。
そんな有象無象のコメントを指先で弾き飛ばし、壮太は別のアプリを開いた。
検索ワードは、入力履歴の一番上に残っている。
『下埜 弘子』
画面いっぱいに表示される、甲子園での弾けるような笑顔。
チームメイトと肩を組み、Vサインを作る彼女は、まさに青春の具現化だ。
ネット上のコメントは、壮太へのそれとは正反対の言葉で溢れかえっている。
『女神』『日本の宝』『明るくて性格も最高』『こんな彼女が欲しい』
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
明るくて性格も最高?
ふざけるな。
お前らは何も知らない。こいつの本性を。あの「ロコちゃん」スマイルの下に隠された、冷酷で暴力的な怪物の姿を。
――十三年前。
幼稚園の砂場で、泥だらけになってボールを追いかけた少女。
「壮ちゃん、野球しよう!」
太陽のように笑う彼女は、間違いなく壮太の初恋だった。
弘子がキャッチャーで、壮太がピッチャー。二人は地域の有名バッテリーとなり、周囲からは「将来は夫婦だな」と冷やかされた。
壮太はそれが満更でもなかったし、弘子も「壮ちゃんとならいいよ」と笑っていたはずだった。あの日までは。
歯車が狂ったのは、小六の夏のあの日だ。
県大会予選の決勝、サヨナラ負け。
1点リードの最終回、一死満塁。
スクイズ警戒のサイン。
だが、壮太は首を振った。恐怖と、功名心と、魔が差したような判断ミスで、ど真ん中に投げ込んだ。相手はスクイズを仕掛けてきた。
一死満塁。フォースプレーだ。ホームに投げてからファーストに投げれば、ダブルプレーで試合終了だったはずだ。
だが、絶妙な三塁線への転がりに焦った壮太は、ホームへ暴投してしまった。
解散の直前、彼女は壮太の耳元で低く囁いた。
『あとで、いつもの公園に来て。一人でね』
そして一時間後。
夕暮れの薄暗い公園で、一人の少年の精神が完膚なきまでに破壊される、地獄の時間が始まった。
二人きりになった瞬間、謝ろうとした壮太の言葉は、衝撃と共に遮られた。
拳。
硬球を握り続けて岩のように硬くなった右の拳が、壮太の頬を撃ち抜いたのだ。
「……ッ!」
ドサッ、と無様に地面に転がる。口の中に鉄の味が広がった。
何が起きたのか理解できないまま見上げると、そこにはいつもの明るい「ロコちゃん」はいなかった。
夕闇の中で、目だけがギラギラと爬虫類のように光る、知らない女が立っていた。
「なんで私の言うことが聞けないの?なんで裏切ったの?」
低い、地の底から響くような声。
逃げようとする壮太の腹部に、容赦ない蹴りが入る。
ゲホッ、と空気が漏れた。
「あんた、自分のこと天才だとでも思ってるわけ?私より上手くなったとか思って調子乗ってんじゃないわよ!」
そこからは、一方的な蹂躙だった。
マウントを取られ、襟首を掴まれ、何度も何度も地面に叩きつけられる。
防ごうとした腕を蹴り上げられ、みぞおちを殴られ、呼吸すら許されない。
物理的な痛みだけではない。彼女の口から機関銃のように放たれる言葉の刃が、壮太の心を細切れにしていった。
「あんたのせいで負けたのよ!私の夏を返して!」
「男のくせに泣いてんじゃないわよ!気持ち悪いんだよ、その泣き顔!」
「本当に使えない。ゴミ。クズ。あんたなんか生まれてこなければよかったのに」
罵倒のバリエーションは尽きることがなかった。
人格否定。能力の否定。存在の否定。
大好きだった幼馴染の口から、「死んで償えば?」「私の人生から消えて」という言葉が吐き出されるたびに、壮太の中の何かが音を立てて壊れていった。
5分、10分、いや、もっと長く感じられた。
永遠に続くかのような暴力の嵐。
壮太は痛みと恐怖で声を上げることもできず、ただ小動物のように丸まって震えることしかできなかった。
「……二度とボールに触るな。二度と私の前に顔見せないで」
最後にそう吐き捨てられ、彼女は去っていった。
残されたのは、血と泥の味と、身体中の激痛、そして心に深く刻印された「女性への根源的な恐怖」。
だが、本当の地獄は翌日からだった。
翌朝、学校へ行くと、空気が変わっていた。
クラスメイトたちの視線が冷たい。ヒソヒソという話し声が、壮太が近づくと止む。
「ねえ、聞いた?こいつ、弘子ちゃんのサイン無視して試合負けたんだって」
「うわ、最悪。弘子ちゃん泣かせたとかありえない」
「自分だけ目立とうとしたんじゃない?」
弘子が、言いふらしたのだ。
衝動的な怒りか、それとも自分を正当化するためか。彼女はチームメイトや女子グループに、いかに壮太が身勝手な裏切りをしたかを吹聴していた。
クラスの中心的存在だった弘子の言葉は絶対だった。
あっという間に、壮太は「戦犯」から「クラスの敵」へと転落した。
上履きが隠された。
机に「死ね」「裏切り者」と彫られた。
給食に砂を入れられた。
移動教室で置いていかれた。
誰も助けてくれなかった。かつてのチームメイトたちさえも、弘子のご機嫌取りのために率先して壮太を無視した。
一週間も経たずして、壮太の心は完全に壊れた。
公園での暴力の痛みよりも深く、鋭い刃物が、少年の自尊心を切り刻んだのだ。
「……あいつが、俺の居場所を全部奪った」
部屋に鍵をかけ、カーテンを閉め切ったあの日から三年。
壮太の世界は、四畳半の部屋と、光るモニターの中だけになった。
あの日の痛みと孤独は、五年経った今も、決して消えることはない。
壮太はスマホの画面を親指で強く押し込んだ。液晶の中の、チームメイトに囲まれて笑う弘子の顔にひびが入るように。
「……全部、お前のせいだ」
今の惨めな自分も。引きこもった三年間も。人間不信も、女性への恐怖も。
全て、お前が壊したんだ。
なのに、どうしてお前だけが光の中にいる?
暗い嫉妬と、未だに消えない「好きだった」という感情の残滓が、ヘドロのように混ざり合う。
壮太はスマホを放り投げ、布団を頭から被った。
もう二度と、野球なんかしない。あいつに関わる世界には戻らない。
そう誓ったはずだった。
しかし、運命の悪戯は、残酷なまでに二人を逃がそうとはしなかった。
一人は一〇九点を取られた敗戦処理投手として。
一人は女子野球の頂点に立った孤独な捕手として。
数ヶ月後のドラフト会議が、断絶された二つの線路を、再び無理やり交差させることになる。
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