第2話 その転校生、

 四月初め。校門から校舎へと続く道は、やわらかに色づく桜に飾られ、新学期の始まりを嫌でも感じさせる。

 例え、満開の桜から目を背け、下を向こうと、既に散りながら、それでもなお鮮やかな桜の花弁が視界に映り込む。

 それが、春を感じさせるのだ。


 だから、道を飾る桜になんて注視しない生徒でさえも、自然とこの道を歩くだけで、何かが新しく始まる……そんな予感を覚えてしまうのだろう。


 現実はただ、学年が一つ上がり、クラスの顔ぶれが変わるだけだと言うのに。

 地続きな人生の一時でしかなく、新学期を境に大した変化なんて殆どは無いと言うのに。


 新学期特有の不思議な予感と、何も変わりはしないという分かりきった現実の退屈さの間で揺れる感情を味わいながら、俺は窓の外で咲き乱れる桜の木々をぼんやりと見下す。

 

 新たに振り分けられた教室の、窓際の後ろから二番目。

 そこが俺の新たな席だった。

 この席は出席番号で振り分けられており、結城ゆうきが苗字である俺の新学期は窓際から始まる。小中の頃も含め、これまで、窓際以外からスタートを切ったことはなかった。


 願わくばいつもの如く、窓際の一番後ろが良かったが……ここでも十分な特等席だろう。

 全開の窓からは、暖かな心地よい風が通り抜け、優しく肌を撫でる。

 この心地よさを最も良く体感出来るのは、窓際の特権の一つだ。


 さて。この世の中には、出会いの春なる言葉が存在するそうだ。

 実際、今この教室でも、見慣れない顔ぶれが並び、何処か、普段とは違う雰囲気を醸し出している。


 部活、ないし委員会で見知った顔を見つけては、話しかける人。

 去年、同じクラスだった少数と会話をする人。

 決して悟られないよう、密かに周囲を気に掛けつつ、静観を決め込む人。


 新学期ならではの空気感がこの教室にはあり、恐らくは他のクラスも似たような感じだと推測出来る。

 普段の騒がしさとはどこか違う、一歩引いたところから様子を見るような賑やかさ。

 これはある意味、学校生活における春の風物詩と言えるかもしれない。


 しかしだ、賑やかさは所詮、賑やかさ。俺にとって、好ましい雰囲気ではないことに変わりはなかった。

 ポツポツと人が増えるにつれ、学期終わりの活気を取り戻す教室を前に、俺は机に顔を突っ伏した。


「…………」


 違う。あれだぞ?

 クラスメイトに話しかけられないよう、鉄壁の自衛の構え……と言うわけではない。

 それだけは断じて違うと、否定しておこう。


 本当だ。

 何せ、俺に話しかける生徒など居ないのだから。


 俺は九年前、不幸な事故で幼馴染と死別したあの日から、悪夢に苛まれながら、日常生活を送って来た。

 今でこそ、平然と日常生活を送れているが、小学生一年生のある時から中学生半ばまでの約七年間、俺は重度の不眠症を患っていた。

 長い間、満足に眠れず、瞼を閉じると、悪夢が見える。高い確率で、あの日の光景が夢に出る。

 その度に、飛び跳ねるように全身が同時に目覚めるのだ。

 大量の汗をかき、呼吸を速めながら、恐怖と共に覚醒するのだ。


 当然、疲れなんて取れるどころか、増すばかりで、常に意識は半覚醒状態。学校に行っても話しかける気力はなかったし、話しかけられたとて、しっかりと受け答え出来る状態じゃなかった。

 だから、次第に俺の周囲から人の気配が消えた。


 事情を知る教員も、現状維持が無難だと考え、孤立する俺を無理に俺を人と関わらせようとはしなかったし、俺もそれで満足だった。


 今にして思えば、これらは間違いだったのかもしれない。

 そんな生活が七年ほど続き、心身の成長と日々の運動で余力が生まれ、過去のトラウマも薄れ行き……周囲に馴染むだけの基盤が整った時には、俺はすっかり人付き合いと言う、当たり前の行為のやり方さえもを忘れてしまっていた。

 それだけじゃない。

 悪夢に魘される日々は俺の目元に消えることのない隈を生み出した。

 高校生には似合わない酷い隈は、更に俺から人間を遠ざける。このせいで、俺は今なお、生気のない、活気のない、年がら年中眠そうにしている人間として周囲に印象付けられている。


 えっ? 寝たふりなんてしているからじゃないかって?

 まぁ、それについては否定はしないでおこう。

 何にせよ、そんな輩に進んで声をかける物好きはまあいない。

 強いて言えば、時折……「大丈夫ですか?」と心配の声をかけられるくらいだ。


 兎に角、目の下に信じられないほど濃い隈と、すっかり孤独に慣れきった体質は、 俺を灰色の高校生活へと導き、こうして、今へと至る。

 机に突っ伏すに至る。


 「はぁ……」


 桜が咲き誇り、新たな予感を纏う季節……春。

 それは俺にとって、変わらない日常の一部。

 卒業まで続くであろう、灰色の道。



 教室の空気感が変わったことを肌で感じ、意識が覚醒する。

 この春特有の心地よさに当てられ、本当に眠ってまったらしい。


「おーい。お前ら、席につけ」


 教室内に一際大きな、女性の低い声が響き渡り、教室は騒がしさを収めた。

 あと五分だけ……と言いたいところだが、周囲の生徒に起こされる展開だけは絶対に避けたい。

 もうウンザリだ。

 せっかく起こしてくれた生徒が、俺の目元の酷い隈を見て、「あれ? 申し訳ないことしちゃったかも」と罪悪感を抱き、見ていて可哀想な表情をするのが。

 そんな顔を見るはこちらとしても辛い。

 だから、重たい頭を気合いで持ち上げる。


 少し先に見える教卓の前には、長い黒髪を下ろす、男子生徒並みの身長の女性がいた。

 凛々しさと美しさを兼ね備えたその女性は、黒いスーツ姿が良く似合う……と言いたいところだが、所々着崩されており、ネクタイは結ぶでもなく、ただぶらりと首にかけているだけだった。

 長身に、そのスタイルの良さも相待って格好良いのに、どこか締まらない雰囲気を身に纏っている。


「えーと、一年の頃に、私の担当だったクラスの連中は見知ってると思うが……」


 まっさらな黒板上に、白いチョークを滑らせる。


「私は和泉いずみあおいだ。担当は、現代文と古文・漢文。要するに国語系だな。まぁ、一年間、てきとうによろしく頼む」


 和泉碧……俺の場合、一年の頃は別の国語担当だったため、初めましてであるが、話には聞いたことがあった。

 この高校開校以来、最も残念美人な教師と言う、極めて不名誉で不敬な異名を持つ教師。

 所詮は噂と思っていたが……既にその片鱗は現れている。

 目元にがっつり隈のある俺より、遥かに眠そうで気怠そうだ。一体、どれ程の怠惰を内に抱擁すれば、あの雰囲気を纏えるのだろうか。


「えーと……あ、そうそう。今日はうちのクラスに転校生が来てるんだ」


 俺が無意味な考察を進めるまに、和泉先生が気怠げに放った『転校生』の一言に、教室は騒めく。

 一体、どんな生徒が来るのだろうか、と。

 初めましてながらも、何処か見知った面子の集団に垂らされる全く未知な一滴に、大勢の期待感が高鳴る。


「転校生かぁ……黒髪ショートの美女来ねぇかなぁ」

「イケメンかな? 韓国アイドル風なイケメンかな?」


 一部男子は可愛い女子転校生を期待し、一部女子はイケメンな男子転校生を期待し、静かな盛り上がりを見せる。

 勿論、そんな淡い期待が叶わなかったとて、彼ら、彼女らに絶望はない。

 恐らくはああやって、期待に胸を高鳴らせるのが楽しいのであって、現実は案外誰が来ようと良いのだろう。

 大抵の場合は、転校生を自然と受け入れ、それなりに楽しくやっていく。


「可愛い女子高校生だったら、俺もう告るわ」

「やめとけって。この先一年、苦しくなるだけだぞ」

「いや、それでも俺は行くね。もう、挑戦もなしに敗北するのはごめんなんだ」


 中には本気で期待している連中もいるようだが、そう言う面々に限って、赤の他人止まりな予感を漂わせている。

 まぁ、そんな連中でさえも俺よりかは、数倍……いや、数十倍は高い可能性を秘めているわけだが。


「はぁ……」 


 頬杖をつきながら、軽いため息をこぼす。

 誰が来ようと……それこそ、どれ程魅力に溢れる人間が来ようと。その逆、人間性に難のある人間が来ようと、俺にとっては赤の他人。

 分かりきっているからこそ、期待のような感情は一切、湧いて来なかった。

 この手の話題で、盛り上がる相手もいないし、一人盛り上がるほど、悲しい人間に成り果てたつもりはない。

 俺に出来る事は、ただ、期待される転校生は可哀想だと同情するくらい。


「よーし、それじゃ入ってくれ」


「はい」


 明るい返事と共に教室の扉が開かれ、クラス中の視線が集まる。

 期待の有無に関わらず、皆、大なり小なり興味はあるのだろう。

 そんな中、俺は興味なさ気に窓の外へと視線を向けようとし……、


 しかし、視界に映ったその姿に、釘付けになってしまう。


 転校生が、クラスメイトらの想像を絶する程に、可愛かったからではない。


 確かに、美人ではある。文句の付けようがない美少女である。

 悪目立ちするような癖の無い、綺麗な二重の瞳は、長い睫毛に飾られ。日本人にしては高いものの、存在感のない鼻。そして、短い人中の下には小さな口。顔の輪郭もシャープで。

 何より、パーツの配置がよく、見事なまでに整った容姿をしていた。

 それらをふんわりとした長髪が、更に可愛く彩っている。

 スタイルもモデルの如く良く、身長は平均的なのに、妙に高く映る。

 クラスメイトは男女問わず、彼女の美貌に見惚れている。


 しかし、俺が彼女に釘付けになったのは、その可愛さ故ではなかった。


 ――あり得ない。


 口をパクパクと動かすが、それが音になることはなかった。

 乾いた口から、空気が漏れるだけだった。


 全身から血の気が引いていく。


 転校生の顔を見た瞬間、今の今まで思い出すことさえ出来なかったあの日の……幼馴染の顔がはっきりと脳裏に浮かんだ。

 噂通りの、明るくも品を感じる、幼い女の子の笑みが……。

 俺の知る、九年前の廻間茜の笑顔が。


 どうして、


 幼い女の子の面影が、転校生の顔と重なる。


 その瞬間、他の臓器を押し除ける勢いで、心臓が力強く跳ね上がった。

 春の心地よさに反し、俺の手にはびっしょりと手汗が湧き出ている。


「ちょ、まじで可愛くない!?」

「ひょっとして芸能人!?」


 絶世の美女の到来に、男女問わず浮き立つ。

 しかし、そんな雰囲気を感じる余裕さえないほどに、意識も、思考も、五感全てが教卓の前に立つ転校生へと吸い寄せられていた。

 嘘だ。嘘だ、嘘だ。

 本能が否定する。目の前の光景を拒絶する。そして最悪な事に、強く拒絶する程に、視線は彼女に吸い寄せられ、全神経が研ぎ澄まされていく。


「それじゃ、軽く自己紹介してくれ。くれぐれも面白いことはするなよ。したら反省文な」


「はい」


 美少女は、和泉先生の指示に、明るい返事を返す。


 ごくりと唾を飲む音が、妙に大きく、煩く聞こえる。

 研ぎ澄まされた聴覚で、俺は彼女から紡がれる言葉を待つ。

 転校生が軽く全体を見渡す中、一瞬、俺と目が合った。

 そして、止まった……そんな気がした。

 違う。そんなはずはない。

 これは勘違いだと、気のせいだと自分に言い聞かせる間に、彼女は笑みを浮かべ、その小さな口をゆっくりと開く。


「初めまして。今日から、このクラスでお世話になります、廻間はざまあかねです。よろしくお願いします!」


 そう言い、明るさと品を抱擁する、美しい笑みを浮かべた。


 胸部が激痛を帯びる。

 廻間茜……。

 彼女の名乗ったその言葉が、思考のすべてを支配する。

 嘘だ、違う。そんなはずはない。


 俺の本能は、目の前の現実と、そこから導かれるとある仮説を、叫ぶように否定する。

 違う。目の前の彼女は同姓同名の良く似た他人だ。

 俺の知る、廻間茜ではない。絶対にあり得ない。


 しかし、同時にこうも思う。

 目の前の転校生は俺の知る、廻間茜その人ではないか。

 理性が導き出してしまった解答を、本能は拒む。


 否定し、肯定し。

 疑い、認める。

 そんな堂々巡りが、延々と頭の中で繰り広げられる間にも、現実の時間は進んでいく。

 周囲は、廻間茜を受け入れる。快く、歓迎さえする。そりゃそうだろう。こんな、容姿端麗な美少女が転校して来たら、喜びはせずとも不快にはまずなるまい。


 彼女の存在を恐れ、拒絶する者は、この場で唯一人……俺だけだ。

 俺だけが転校生を、目の前の現実を受け入れられずにいる。


「よし。それじゃ、廻間はあそこの空いてる席に座ってくれ。窓際の一番後ろ、いわゆる特等席だ。視力には問題なかったよな?」


「はい。視力はかなり良い方ですので」


 和泉先生と廻間茜の視線は俺の方へ……正確には、俺を通り越し、背後へと向いている。

 俺は今になってやっと気がつく。自身の背後の空席……それが、転校生を迎え入れるための空席だったことに。


 和泉先生の指示を受け、一歩、また一歩と、廻間茜の足は進む。


 距離が縮まるにつれ煩く高鳴る鼓動に、黙れと心で叫ぶ。

 せめてこの鼓動が聴かれぬようにと必死に祈る。

 視線を固定し、唇を軽く噛み締め、平然を装う。

 

 廻間茜が横を通った瞬間、清涼感のある良い香りと鉄の死臭の混じる、不思議な匂いが鼻腔を通り抜けた。


 悪夢が蘇る。

 脳裏に、そして現実に。


 今現在、俺の居る場所が、現実であるという自覚が揺らいだ。


 背後で、椅子が引かれる音がする。

 彼女が座ったのが分かる。

 そして、振り返ったわけでもないのに、彼女が笑ったことが、確かに伝わってきた。

 

 こんなにもはっきりと、確かにこの目は覚めていると言うのに、まるで悪夢の中にいるようだった。

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