ep.6 逮捕
アグネスは警告を受け取っていなかった。それは幸運であったからでも油断していたからでもない。国家の動きがまだ「音を立てない段階」にあっただけだ。国家は、突然には動かない。突然に見えるのは、観測される側の理解が追いつかないだけで、実際には、必ず準備が先行する。切り取る対象が定まったとき、最初に処理されるのは周囲だ。連絡は減り、経路は単純化され、判断は遅延する。抵抗が意思ではなく反射に変わるまで、国家は待つ。
アグネスは、その過程を知っていた。知識としてではない。地下で生きる中で、身体が覚えた速度として。朝、目を覚ましたとき、彼女は奇妙な明晰さを感じていた。不安はない。焦燥もない。ただ、今日やるべきことが異様なほど整理されている。連絡が三件。判断は、一つも下さない。判断は、すべてシュミットに任せている。それは安全策であると同時に、引き継ぎだった。彼女が消えたあとも、組織が継続するための。洗面所の鏡に映る自分の顔を、アグネスは長く見なかった。
顔は、情報になりやすい。彼女は、情報ではなく機能であり続ける必要があった。地下組織において、彼女の役割は明確だった。連絡網の維持、リスクの現実化。理想を語らない代わりに、破綻を防ぐ。それが彼女の仕事だった。端末を確認する。
新しい投稿はない。Δは依然として沈黙している。
その沈黙を、彼女は責めなかった。匿名であることは、逃避ではない。引き受けないという選択だ。引き受けないことでしか成立しない言葉もある。だがその選択の余白が、誰かを前に押し出すことも、彼女は理解していた。
外に出る。都市は、いつもと変わらない。人々は歩き、車は流れ、広告は明滅する。変化はない。だが、密度が違う。視線が、わずかに長く留まる。偶然と呼べる程度の差異。だが、偶然は連続しない。彼女は歩調を変えなかった。走れば、対象になる。通常を維持することが、逆説的にはささやかな抵抗だった。連絡先の一つと、短く会話を交わす。用件だけを伝え、雑談を排除する。相手も同じだった。彼らは皆、理解している。今は話さないほうがいい。
昼を過ぎた頃、移動経路で違和感が生じた。道路工事でも事故でもない。だが、人の流れが不自然に滞っている。同時多発ではなかった。彼女が通過した直後に流れが詰まり、離れると再び動き出す。連続的で、精度が高い。アグネスは理解した。まだ来てはいない。だが、準備は終わっている。建物に入り、階段を上がる。鍵を開け、部屋に入る。空気は朝と同じだ。だが、音が違う。都市の雑音が、わずかに遠い。彼女は、端末を取り出した。シュミット宛に、短い文を打つ。
連絡を切って。
私は、役目を終える。
送信。履歴消去。初期化。手順に迷いはなかった。
訓練ではない。これが日常だった。ノックの音は、控えめだった。警告でも威嚇でもない。事務的で、丁寧な音。彼女は一度だけ深呼吸し、扉を開けた。
男は二人。制服はない。だが、身分証の提示も不要だった。彼ら自身が制度の延長だからだ。
「アグネス・K」
名を呼ばれた瞬間、匿名性は消失した。彼女は、その事象を静かに受け取った。
「同行をお願いします」
理由は告げられない。権利も考慮に入れられない。すべては、すでに処理されている。彼女は抵抗しなかった。
彼女を何処かに移送する車の中は静かだった。質問はない。尋問は別の場所で行われる。施設は地下にあった。清潔で、無機質で、痛みの気配がない。少なくとも、今は。部屋に通され、椅子に座らされる。拘束はされない。彼女がまだ話せる状態にあるからだ。机の上に置かれた書類には、彼女の監視記録が並んでいた。接触者。経路。役割。誤りは、ほとんどない。
「補足はありますか」
問いは穏やかだった。彼らは、情報を集めているのではない。ただ自身の無誤謬性を再確認していた。
「ありません」
彼女は答えた。嘘ではない。補足することで、誰かを延命させることはできない。時間が過ぎる。質問は続くが、内容は変わらない。既知の事実を、角度を変えて確認するだけだ。彼女は、話した。だが、広げなかった。機能の範囲を超えない。痛みは、まだ与えられない。今は、『期待』の段階だ。彼女が自発的に崩れることを、制度は望んでいる。その頃、シュミットは連絡の断絶を確認していた。確認というより、受理だった。だが彼は動かなかった。
ベンは、別の場所で同じ事実を知った。報告としてではない。空白として。アグネスからの連絡が、来ない。彼は理解した。整理された選択肢の中で、最初に消えたのが彼女だった。それは、合理的な結果だったはずだ。だが、その夜、彼は眠れなかった。
施設の地下で、アグネスは椅子に座ったまま、目を閉じた。国家は、動き始めている。処理は、静かに、正確に進む。
『Δ』 ささがに @day-of-resurrection
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