Part.2 名を与えられたもの

ep.5 合理的判断

 ベンは、監視されていると「感じて」いたわけではなかった。それは感覚ではなく、統計に近い理解だった。この都市において、一定以上の情報に触れ、一定の回数で移動し、一定の人物と会話を重ねれば、どこかで必ず監視と重なる。そこに意図は要らない。意志すら不要だ。ただ、条件が揃えばよい。彼は条件を満たしていた。地下組織の副代表という立場は、肩書としては曖昧で、法的にも存在しない。それでも、役割は明確だった。連絡を調整し、危険を現実的な水準に抑える。理想ではなく、継続を選ぶ仕事だ。



 その日、彼は通常どおりの行動を取っていた。指定された場所に向かい、指定されていない人物と会い、指定されていない会話を交わす。すべてが予定外であり、同時に日常だった。最初の違和感は、職員の応対だった。公共施設の窓口で、書類を提出した際、確認に要する時間が少し長かった。


「少々お待ちください」


そう言って奥に引っ込んだ職員の眼は、必要以上に整っていた。迷いがない。誰かに指示された動きではなく、すでに組み込まれている手順のようにさえ見えた。ベンは、その場を離れなかった。離れる理由がなかったからだ。戻ってきた職員は、謝罪も説明もしなかった。ただ、処理は完了していると告げ、書類を返した。その視線は一瞬だけ、彼の顔を正確に捉えた。測るように、ではなく、照合するように。それで十分だった。



 次は、街路だった。いつも利用している道で、いつもと同じ時間帯。だが、角を曲がった先にいた男は、偶然としては都合が良すぎた。新聞を読んでいるふりをしながら、頁をめくるタイミングが、歩調と一致している。ベンは歩みを緩めなかった。男は声をかけない。代わりに、同じ方向へ歩き出した。距離は一定で、近づきすぎず、離れすぎない。追跡ではない。同行だ。数分後、自然に会話が始まった。それは挨拶ですらなかった。


「最近、この辺りは静かですね」


明確な目的を欠いた言葉だった。だが、静か、という評価が、現在の異常を示していることは明らかだった。


「ええ」


ベンはそう答えた。否定しなかったのは、事実だからではない。否定することで、別の話題に移行されることを避けたかった。


「人は、動かないときほど、多くのことを考える」


男は続ける。ベンは、その言葉に既視感を覚えた。

Δの詩が、同じ構造を持っていたからだ。動かないことを肯定せず、しかし危険視もしない。


「考えること自体は、違反ではありません」


ベンは言った。それは自分に向けた言葉でもあった。男は、小さく頷いた。


「違反ではない。だが、判断が遅れる」


遅延。それが、国家にとっての問題だった。二人は、自然に喫茶店に入った。入店は提案ではなく、流れだった。椅子に座ることも、注文することも、合意を必要としなかった。男は、名乗らなかった。

それが最初の、そして最後の配慮だった。


「あなたは、現実を見る方だと聞いています」


その「聞いている」という表現に、ベンは注意を払った。誰から、とは言わない。だが、聞いている主体が複数であることだけは示している。


「理想ではなく、結果を見る」


ベンは否定しなかった。それは、彼が地下組織で担ってきた役割そのものだった。


「最近、説明できない現象が増えている」


男は言った。


「違反はない。指導対象も特定できない。だが、効率が下がっている」


効率。それは暴力よりも前に使われる言葉だ。処罰よりも前に置かれる概念だ。


「原因は?」


ベンは、あえて尋ねた。尋ねることで、自分がすでに会話の内部にいることを確認した。


「まだ名を与えられていない」


男はそう答えた。名を与えられないものは、処理できない。処理できないものは、いずれ誰かの責任になる。


「名を与える必要がある」


それは依頼ではなかった。協力要請でもない。ただの方針説明だった。ベンは、沈黙した。沈黙は、拒否でも同意でもない。検討だ。彼は理解していた。

この接触は、ここで終わらない。断ったとしても、続く。受け入れれば、形を変える。地下組織は、結果を引き受けない。Δは、名を持たない。シュミットは、象徴になることを拒む。では、誰が現実を処理するのか。答えは、すでに目の前にあった。


国家は現実を処理する


暴力も、非難も、失敗も含めて。ベンは、それを合理的だと判断した。その判断が、自分自身をどこへ連れていくのかを、まだ完全には理解しないまま。



 喫茶店を出ると、男はいなかった。痕跡も残らない。ただ条件が一つ、確定しただけだった。ベンは歩きながら考えた。これは離反ではない。選択肢の一つに過ぎない。だが、選択肢が淘汰された結果、残った道は一本しかなかった。その事実が、彼の胸に、遅れて重さを与え始めている。

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