ep.0-1 無銘

 Δは毎朝ほぼ同じ時刻に目を覚ました。目覚ましは使わない。必要がないからである。眠りは浅く、夢は長く続かない。覚醒は、意志というよりも、外部からの圧力に近い。窓は開けない。光は入るが、音は遮断されている。街の気配は、壁を通して鈍く伝わるだけで十分だった。具体的な音を聞く必要はない。国家の朝はいつも同じ速度で始まる。



 洗面台の前に立ち、顔を洗う。鏡を見る時間は短い。そこに映るものは、誰でもない。誰でもないという事実を、毎朝確認する必要はなかった。端末は起床から一定時間を置いてから起動する。即座に触れないのは、習慣であり、戒めでもあった。言葉に触れる前に、沈黙を身体に残しておく。その沈黙が後で文章の輪郭を決める。Δは、書く前に読まない。他者の言葉を入れると、判断が混濁する。必要なのは情報ではなく欠如であった。何が語られていないか。どこに空白があるか。それだけを測る。



 彼(あるいは彼女)は、職を持っていた。だが、その内容は重要ではない。反復的で、交換可能で、痕跡を残さない仕事であることだけが条件だった。名刺は持たず、肩書も記憶されない。その透明さが、生活を成立させていた。



 同僚と話すことはある。だが会話は事実に限定される。感想、意見、将来の展望。その類は避けられた。個性は、照合可能な情報を増やす。Δは、それを徹底して削ぎ落としていた。



昼休み、Δは一人で公園のベンチに座る。立つことはしない。立つという姿勢は周囲の視線を集める。詩の中で用いる言葉と、現実の行動は、厳密に分けられていた。渇きは、常にあった。だが、それは承認への渇望ではない。名前を呼ばれたいわけでも、理解されたいわけでもない。Δが欲していたのは、言葉が誰のものでもなくなる瞬間であった。



 匿名であることは、自由ではない。それは、恒常的な緊張を伴う。自分の言葉が他者の内部でどのように変形されるのかを制御できないという恐怖。称賛も非難も、等しく届かない。その空白に耐え続けること。



 時折、Δは思う。もし名を持っていたなら説明できただろうか。意図を語り、誤解を正し、責任を引き受けることができただろうか。だが、その想像はすぐに棄却される。名を持った瞬間、言葉は立場になる。立場になった言葉は、必ず回収され、利用され、管理される。Δはそれを拒否していた。



 夜、端末を開く。書くかどうかは毎回決めない。書かないこともまた選択である。沈黙は、投稿よりも強い場合がある。その判断を誤れば、言葉は鈍る。詩を書くとき、感情は使わない。どの言葉を置き、どの言葉を欠かせるか。その取捨が、読む者の内部で反応を生む。



 Δは、投稿ボタンの前で、必ず数秒止まる。その間に考えるのは、結果ではない。誰が読むかでもない。ただ一つ、この言葉が、名を必要としないかどうか。必要とするなら、書き直す。それでも必要とするなら、破棄する。投稿された言葉は、すぐにΔのものではなくなる。その事実が、渇きを癒し、同時に深めた。



 誰でもない者として書くこと。それは、世界に触れる唯一の方法であり、世界から切り離される代償でもあった。Δは、端末を閉じる。沈黙が戻る。その沈黙の向こうで、言葉が動き始めていることを、Δはまだ知らない。知る必要もなかった。名を持たない者は結果を所有しない。ただそれで良かった。

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