ep.4 沈黙

 その詩は突如として現れた。特別な予告もなく、拡散を促す仕組みも伴わず、Δの名だけが、従来と同じ位置に記されている。投稿時刻は不規則であり閲覧数の増加も急激ではない。にもかかわらずその詩は、画面に触れた者の動作を止めた。読了という行為が、成立しなかったからである。



それは集まらない

呼ばれもしない


ただ同じ場所で

同じ沈黙を受け取る


名を与えられた瞬間

それは檻になる


だから呼ぶな

ただ立て

風が通り抜けるまで



命令形が用いられていた。しかし、それは従属を要求する文ではなかった。禁止と放置によって構成された、行動の否定である。集まるな。呼ぶな。名づけるな。その否定の反復は、読む者から選択肢を奪うのではなく、むしろ余白を拡張した。何をしてはならないかは明示されている。何をすべきかは、一切書かれていない。この欠如こそが、詩の核であった。詩は、行動を導かない。行動を妨げる言葉だけを配置し、その先に残る沈黙を、読む者自身に引き渡す。その沈黙が耐えがたい者は、ページを閉じるだろう。耐え得る者だけが、次の段階へ進む。次の段階が、何であるかはΔ自身も定義していない。



 詩が投稿されてから数十分のあいだ、削除も警告もなかった。それは、単なる遅延ではない。対応の不能が、制度的に露呈した時間であった。秘密警察の自動監視は詩を危険物として分類できなかった。暴力を示唆しない。特定の対象を攻撃しない。集会を呼びかけない。いかなる法令違反にも直接的には該当しない。それでも、閲覧者の滞留時間が異常に長いことだけは記録された。画面を閉じない者が多い。読み返す者が多い。共有しないまま保存する者が増加していた。それは、外向きの伝播ではなく、内向きの定着を示す兆候であった。言葉が、内側に留まっている。



 地下組織の端末にも、その詩は届いていた。シュミットは、印刷された文字列を無言で眺めていた。声に出して読むことを、彼は避けた。音にした瞬間この詩は「呼びかけ」に変質する。その危険を、彼は理解していた。


「名を与えた瞬間、それは檻になる」


彼は、その一行の前で、指を止めた。檻とは、国家が与えるものだけではない。運動もまた檻を作る。理念、綱領、指導者。そのいずれもが人々を囲い込む。この詩は、囲い込みを拒否している。


「ただ立て」


その簡潔さに、シュミットは微かな不安を覚えた。

立つとは、姿勢であり、拒否であり、継続である。だが、立つことは、目立つことでもある。目立つ者から、順に消えていく。それが、この国家の常であった。それでも、彼は理解していた。跪くことをやめた瞬間からしか、変化は始まらない。詩は、呼ばなかった。それにもかかわらず、人々は動き始めていた。その動きは、計画されたものではない。だが、もはや偶然とも言い切れない。沈黙が、同じ形を取り始めていた。詩が引き起こしたのは、即時の行動ではなかった。



 変化は、より遅く、より個別に進行した。最初に現れたのは、判断の遅延である。人々は、これまで即座に従っていた規則に対し、わずかな間を置くようになった。信号が変わってから歩き出すまでの一拍、書類に署名する前の躊躇、上司の指示に対する短い沈黙。そのいずれもが、単独では意味を持たない微差であった。しかし、その微差は蓄積した。社会の表面に波紋を生じさせることなく、内部の摩擦係数だけが上昇していく。制度は機能しているように見えながら、応答速度を失い始めていた。



 ララは、その変化を言語化できなかった。彼女は学校で、これまで通り授業を受け、指示に従い、規定の時間に帰宅した。ただ一つ異なっていたのは、すべての行動が一度、自分の中で反芻されるようになったことである。立つ、という言葉が、彼女の中で反復された。立つとは、何かに対抗することではない。逃げないことでもない。ただ、判断を外部に委ねない姿勢の維持である。その理解に至ったとき彼女は初めて、詩が行動を命じていない理由を知った。行動は各人の内部で生成されねばならない.....



 秘密警察は、詩の直接的影響を測定できずにいた。街路に異常はない。掲示物も増えていない。集会申請の件数も変化していない。統計上の秩序は、完全に保たれていた。それでも、現場からは報告が上がっていた。職務質問に対する応答が遅い。命令の再確認が増えている。書類の提出が、期限内でありながら、ぎりぎりまで引き延ばされる。ベルフは、それらの報告を精査していた。違反ではない。抵抗でもない。ただ従順さの密度が低下している。その事実を、どの項目に分類すべきか、彼は決められずにいた。


「風が通り抜けるまで」


詩の最終行が呪文のように彼の中で繰り返された。



 地下組織では、活動の縮小が決定された。シュミットは、意図的に動きを抑えた。今、何かを呼びかければ、それはΔの詩に与えられた余白を埋めることになる。余白を埋めた瞬間、そこに檻が生まれる。


「我々は、後退しているわけではない」


彼は、アグネスにそう告げた。


「前に出ないだけだ」


アグネスは頷いた。彼女は、前に出る者から消えていくことを、誰よりも知っていた。今は、名前を残さないことが、最も強い行為になり得る。だがその判断にベンは同意しなかった。彼にとって、沈黙は無責任と同義であった。方向を示さず、結果も管理しない。その状態が長引けば、必ず誰かが代わりに秩序を提示する。国家か、あるいは、より粗暴な何かが。彼は、別の出口を探し始めていた。それは離反という形を取る前の、合理化の段階であった。



 詩は、その後も削除されなかった。それ自体が、異例であった。制度は、対処できない対象を、しばしば放置という形で包囲する。しかし、その放置は、常に期限付きである。名づけの準備が整うまでの、猶予に過ぎない。Δは、その猶予を知っていたのかもしれない。だが、次の詩は投稿されなかった。沈黙が続いた。しかしその沈黙は、もはや空白ではない。人々の内部で、判断が留保され、命令が遅延し、立ったまま考える時間が増えていく。見えない変化が、確実に進行していた。革命は、まだ始まっていない。だが、従順さは、すでに変わりつつあった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る