ep.3 波紋

 情報が問題として扱われるまでには、いくつかの段階が存在する。第一段階は無視である。第二段階は分類であり、第三段階は監視である。処分は、その後にのみ許される行為であった。Δの詩は、現在、既に第三段階に入っていた。それは公式な宣言として告知されることはなく、内部文書の注記として静かに共有された。留意すべき象徴的表現、解釈が分散する投稿、反応の非可視性。それらの語句は、危険を断定しないために用いられる、最も慎重な警告であった。



 秘密警察は動き始めていた。ただし表立ってではない。検問が増えたわけでも、逮捕者が急増したわけでもなかった。代わりに、照合が行われた。閲覧履歴と行動履歴、投稿時間と移動経路、端末の接続先と生活圏。それらが静かに重ね合わされ、重なりの多い地点が抽出された。



 監視とは、見ることではない。関連づけることである。ベルフは、その作業に参加していた。詩に反応した可能性のある人物群を、統計的に抽出する。それが彼の任務だった。反応とは、共有や投稿といった明示的行為を意味しない。閲覧時間、再訪、視線の停滞。そうした微細な挙動が、反応として定義された。


「反応が少なすぎる」


上官が言った。


「危険性の評価が極めて難しい」


ベルフは答えなかった。評価が難しいという事実そのものが、危険性を示していることを、彼は理解している。しかし、それを言うことは、立場上許されなかった。


「監視を継続する」


上官はそう結論づけた。それは猶予の終了を意味していた。



 地下では空気が変わり始めていた。これまで曖昧に共有されていた危機感が、具体的な圧力として認識されるようになっていた。接触の間隔は短くなり言葉はさらに削減された。シュミットは、これを予測していた。詩が可視化されないまま影響を及ぼし続けるならば、管理側は必ず測定可能な行動を探し始める。その過程で、無関係な者も含め、周辺が削られる。


「動きが早まる」


ベンは言った。彼の声には、これまで以上に明確な焦燥が含まれていた。


「詩が原因だと断定されなくても、何かが起きる。起きた瞬間、地下は標的になる」


「地下は常に標的だ」


シュミットは答えた。


「重要なのは、こちらがそれを自覚しているかどうかだ」


アグネスは二人のやり取りを聞きながら、頭の中で連絡経路を再編していた。彼女はすでに、複数の切断を想定していた。誰かが捕まった場合、誰かが消えた場合、その穴をどう埋めるか。組織を守るとは、人を守ることではない。機能を残すことであった。


「切り捨てる準備をしているの?」


彼女は、シュミットに向かってそう問うた。


「切り捨てるのではない」


彼は即座に否定した。


「最初から、全員は残らない構造になっている」


その言葉は正確で、そして冷酷であった。アグネスはそれ以上、何も言わない。言葉を重ねても、現実は変わらないと理解していた。残酷な現実を変えるには犠牲が必要なのだから.....



 ララの周囲では、小さな異変が起きていた。それは露骨なものではない。教師の態度が変わったわけでも、成績が下がったわけでもなかった。ただ、質問が増えた。些細で、無害を装った質問が。


「最近、何か気になるものはある?」

「夜、よく眠れている?」

「端末の使用時間は適切?」


それらは健康指導や生活指導の一環として行われた。しかしララは、それらが偶然ではないことを直感していた。質問は詩を名指ししない。だが、詩が生じさせた沈黙の変化を、正確に追跡していた。彼女は、何も答えなかった。正確には、規定通りの回答を返した。問題はない。異常はない。興味のあるものは特にない。それは彼女のささやかな抵抗だった。詩は、彼女の思考の底に沈み、そして深化していった。



 ベルフは、初めて内部会議に呼ばれた。若手としては異例であったが、彼が最初に詩を注視したことが評価された結果であった。会議では、具体的な指示は出なかった。出されたのは注視、連携、柔軟な対応といった抽象的な語句である。誰も決断を下さず、しかし全員が決断を先送りしていることを自覚していた。


「詩そのものを消すべきではない」


ある幹部が言った。


「消せば、意味が固定される。殉教者を生む」


「では、作者を特定する?」


「現時点では危険だ。作者が象徴として機能している以上は.....」


議論は循環した。ベルフは、その光景を黙って見ていた。彼は初めて、組織が「未知」を前にして、足踏みしているのを目撃した。会議の終盤、彼は発言を求められた。


「現場の印象は?」


短い問いであった。彼は言葉を選んだ。


「詩は、行動を促していません」


それは事実であった。


「ただ判断を遅らせています。人々が即座に従わなくなっている」


その言葉に、沈黙が生じた。判断の遅延。それは統治にとって致命的な要素であった。


「危険だな」


誰かがそう呟く。ベルフは、その評価に反論しなかった。危険であることは、もはや否定できない。



 地下では、最初の切断が行われた。表向きは連絡不全であり、偶発的な不在として処理された。だが実際には、意図的な遮断であった。誰かが監視の縁にかかった。その可能性を排除するための処置である。ベンは、その決定に強く反発した。


「早すぎる」


彼は言った。


「確証がない。こちらから孤立を生むのは、弱体化を意味する」


「確証を待てば、遅すぎる」


シュミットは淡々と返した。


「我々は常に、不完全な情報で判断する」


そのやり取りを、アグネスは黙って聞いていた。彼女は、切断された連絡先の名前を、記憶から消す。消すという行為は彼女にとっては一つの喪失であった。ベンはその様子を見て、言葉を失った。彼の内部である考えが初めて明確な形を取り始めていた。


このままでは全員が失われる。


その考えは、まだ離反ではなかった。しかし、裏切りへと至る道の最初の標識であった。



 夜、街は再び静まり返った。監視は強化され、検査は増え、質問は洗練された。それでも、表面上の秩序は維持されている。何も起きていない。だが、判断の遅延は、確実に広がっていた。詩はまだ削除されていない。作者も特定されていない。しかし監視の輪郭ははっきりと描かれ始めていた。その輪の内側に、知らぬ間に立たされている者たちがいることを、まだ多くの人間は知らなかった。

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