ep.2 芽吹き
詩は拡散されたとは言えなかった。共有数は依然として低く、明確な支持や反対の動きも観測されていない。だが、それは無力を意味しなかった。むしろ、反応が可視化されないという事実そのものが管理側にとって最も扱いづらい状態を生んでいた。
情報は通常、速度か量のいずれかで危険度を測定される。急速に広がるもの、あるいは大量に蓄積されるものは、いずれも処理の対象となる。だがΔの詩はそのどちらにも該当しなかった。人々はそれを共有せず、保存もしなかった。だが彼らは決して忘れもしなかった。詩は、人の内部にのみ留まっている。
地下の部屋で、シュミットは椅子に腰掛けたまま、長い沈黙を保っていた。沈黙は思考の不足ではない。彼にとってそれは、思考が過剰であることの兆候であった。余分な言葉を排除し、必要な判断だけを残すための時間。
アグネスは部屋の隅で壁に寄りかかっていた。彼女はこの組織において、もっとも多くの情報を扱い、もっとも何も残さない者であった。連絡経路、合流地点、代替手段、失敗時の分岐。すべては彼女の記憶の中にのみ存在し、彼女自身が失われれば同時に消失する構造になっていた。
「動かないのですか」
彼女は静かに問うた。問いは感情を伴っていなかった。機械的な確認である。
「まだだ」
シュミットは答えた。
「今、我々が動けば、詩は『合図』になる。合図になった瞬間、意味は固定される」
固定された意味は管理可能な対象となる。それは、彼が最も避けたい事態であった。
ベンは二人の会話を聞きながら、視線を床に落としていた。彼は理論を理解していた。理解しているがゆえに不安を抑えきれずにいた。象徴は制御できない。だが制御できないものに身を委ねることは、計画を放棄することと同義ではないのか。その疑念が、彼の内部で反復されていた。
「我々への監視は確実に強化される」
ベンは言った。
「詩が原因だと断定できなくても、異常は察知される。察知されれば.....」
「それは常に起きている」
シュミットは淡々と返した。
「重要なのは、沈黙が、以前と同じ形を保てなくなることだ。私はその時を長らく待っていた」
アグネスはその言葉を聞き、わずかに眉を寄せた。
彼女はシュミットの思考を理解していた。しかし同時に、その抽象性が具体的な犠牲を前提としていることも理解していた。
「沈黙を破った者は処罰されます。その前提の上に成り立つ変化は、革命とは呼ばれないのでは?」
彼女はそう言った。シュミットは答えなかった。
答えられなかったのではない。答えが存在しないことを、彼自身が理解していた。
秘密警察本部では、詩に関する内部報告が増え始めていた。それらは直接的な警告ではなく、「留意事項」「参考情報」「傾向分析」といった曖昧な形式を取っていた。誰も断定を避けていた。断定は責任を生むからである。
ベルフは、複数の報告書を照合していた。詩を直接引用する文書は存在しない。抽象度の高い表現が同時期に増加していることに気づいた。それらは互いに関連づけられていない。しかし、時間的な重なりは明確であった。ベルフは自分の判断が、組織の動きを左右する可能性を理解していた。
彼はまだ若く、決裁権も持たない。だが、最初の分類と注記が、後続の判断を方向づけることを知っている。詩は、まだ「監視対象」ではない。しかし「無害」でもなくなっていた。
ベルフは端末から視線を離し、しばらく何もせずに座っていた。その間、彼の内部では二つの命令が同時に存在していた。一つは、国家への忠誠。もう一つは、説明できないが無視できない違和感。その違和感は、詩の内容そのものではなかった。詩が「何も命じていない」という事実であった。
ララは、学校で詩について語らなかった。誰とも共有しなかった。彼女は慎重であった。慎重であることは生存戦略であると教え込まれていた。だが、彼女の沈黙は以前とは異なっていた。これまでは、語らないことで何も起こさない沈黙であった。今は、語らないことで何かを保持する沈黙に変わっていた。
授業中、教師が「秩序」について説明しているとき、ララはふと詩の一行を思い出した。
檻は空を所有できない。
教師の言葉は正確で、論理的で、検査にも対応している。それでもララの思考は、その言葉を通過し、別の場所へと向かった。彼女は初めて、教えられた内容を密かに拒否した。彼女はそれを誰にも言わない。言わないからこそ、奪われなかった。
地下組織では、小さな変化が確認されていた。合流地点に現れる人数が、わずかに増えている。新規参加者ではない。以前から接触のあった者たちが、より頻繁に姿を見せるようになっていた。彼らは詩について語らない。だが、沈黙の質が変わっていることは、シュミットにも明確であった。
「準備を進める」
彼はついにそう言った。
「ただし、合図は出さない。動きは分散させ、意味は固定しない」
ベンはその指示を聞き、安堵と不安が同時に胸に広がるのを感じた。計画が動き出すことへの安心と制御不能な流れに巻き込まれる恐怖。アグネスは静かに頷いた。彼女はすでに、いくつかの連絡経路を頭の中で再配置していた。誰が消えても、機能が止まらないように。その準備が、後に彼女自身を消耗させることになるとは、まだ誰も知らなかった。
その夜も街は静かであった。表面上は何の変化も起きていない。だが沈黙はもはや完全なものではなかった。詩は未だ広く拡散されていない。だが蒔かれた種は芽吹き、その子葉が風に吹かれて静かに揺れていた。
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