『Δ』

ささがに

Part.1 沈黙に置かれた言葉

ep.1 風

 この国家において、『言葉』は常に管理の対象であった。それは危険だからではない。管理できないものが存在するという事実そのものが、体制にとって耐えがたいからである。言葉は事前に分類され、使用可能な範囲が定められ、逸脱の兆候があれば即座に修正された。新聞は出来事を報じるために存在するのではなく、出来事が既に処理されたという事実を確認させるために配布された。



 この国では沈黙が最も推奨されていた。沈黙は安全であり、忠誠の一形態であり、また長寿の条件でもあった。語らない者は誤りを犯さない。誤りを犯さない者は記録に残らない。記録に残らない者は、処罰の対象にならない。



 街路は清潔であった。落書きは存在せず、掲示物はすべて同一の書式で統一されていた。標語は理解されることを想定しておらず、反復によって思考を摩耗させるために配置されていた。人々はそれを読むのではなく、視界に入れない訓練を身につけていた。


 そんな日常の眠りを破るように、或る夜、Δ(デルタ)と名乗る匿名のアカウントが短い詩を投稿した。



風は命令を受けない

檻は空を所有できない

名を与えられぬものだけが

朝を知っている



内容は簡潔であり、これといった説明は必要なかった。政治的主張は含まれていない。体制を名指しで否定する言葉も存在しない。怒りも、要求も、指示も見当たらなかった。ただ意味を確定させるための手がかりが、意図的に排除されていた。詩は二十数秒間、完全な沈黙の中に置かれた。通常であれば、そのまま情報の底へ沈み、再び浮上することのない種類の投稿であった。



 ララは十六歳である。その数字は彼女自身を規定するものではなく、制度が彼女を分類するための記号に過ぎなかった。学校では年齢に応じて質問の内容が変わり、配給品の種類が変わり、検査項目が増減した。年齢とは、彼女の身体や思考の状態を示すものではなく、国家が彼女に期待する役割の目安であった。



 彼女は夜、規定時刻に自室で端末を起動した。窓は閉められ、カーテンは厚手のものが使われている。外には監視灯があり、その光は一定の周期で点滅していた。部屋は安全であった。少なくとも、そう信じることでしか、眠りを維持することはできない。



 詩は偶然、表示された。検索したわけではない。誰かから送られてきたわけでもない。ただ、更新された一覧の中に、異質な配置で存在していた。ララはその文字を目で追ったが、すぐには理解できなかった。比喩は平易であるにもかかわらず、指し示す対象が見当たらない。そのため、彼女の思考は行き場を失い、詩の行間に留まった。



「風は命令を受けない」



その一行が、彼女の中で反復される。学校では、命令を受けないものは存在しないと教えられてきた。自然現象でさえ法則という命令に従っていると説明された。だが、この詩は、その前提を静かに否定していた。


 彼女は端末を閉じた。保存することは危険であると知っていた。しかし削除する理由も存在しなかった。削除とは、存在を認識したという証明である。彼女は何もせず、ただ記憶した。文字の並びと、行間の沈黙を。その夜、ララは夢を見なかった。眠りは浅く、しかし途切れなかった。目覚めたとき、彼女は何かを失ったのではなく、これまで存在しなかった空白が、自分の内側に生じていることを感じていた。



 地下にある部屋には、時計がない。時間を共有することは、行動を同期させることを意味する。同期は効率を生むが、同時に脆弱性を生む。民主化活動を指揮する地下組織のリーダー、シュミットはそれを嫌った。


 机の上には何も置かれていない。紙も、端末も、筆記具も存在しなかった。必要な情報は記憶にのみ保持され、記憶の曖昧さそのものが、安全装置として機能していた。


「見たか」


組織のサブリーダー的存在であるベンが言う。その問いに、主語はなかった。


「見た」


シュミットは短く答えた。詩が何を意味するかを、彼は言語化しなかった。言語化すること自体が、詩の作用を限定すると理解していたからである。アグネスは壁際に立ち、二人のやり取りを聞いていた。

彼女は連絡係であり、記録係であり、そしてシュミットの恋人であった。しかし、その事実が地下に持ち込まれることはなかった。地下では、関係性は常に機能に還元された。


「象徴は制御できない」


ベンはそう言った。彼は常に危険を言葉にする役割を担っていた。危険を言語化することで、それを管理できると信じている者の口調であった。


「だが制御されないものが動くとき、国家は必ず過剰反応を示す」


シュミットは答えなかった。彼の視線は、何もない机の上に向けられていた。


「我々が動く必要はない」


やがて、彼はそう言った。


「必要なのは、動きではなく、沈黙の変質だ」


アグネスはその言葉を記憶に留めた。



 秘密警察本部は、昼夜の区別を失っている。照明は常に一定の明度を保ち、時間の感覚を破壊していた。疲労は個人の問題とされ、休息は忠誠心の欠如として記録された。ベルフは端末に向かい、詩を再読していた。形式上の分類はすでに完了している。規則違反は確認されていない。それにもかかわらず彼の視線は画面から離れなかった。詩は規則を破っていない。だが、規則が想定していない種類の文章であった。


「名を与えられぬものだけが、朝を知っている」


ベルフはその一行に、説明できない違和感を覚えた。名を与えることは、管理することである。管理できないものは、存在しないものとして扱われる。それが、この組織で教え込まれた思考であった。

だが、詩は逆を示唆していた。名づけられないものこそが、変化を感知するという逆説。ベルフは報告書を開き、追記欄に短い一文を入力した。


拡散の兆候あり。要経過観察。


それは命令ではなく、ただの注意喚起であった。しかし、この一行によって、詩は『認識されたもの』へと位置づけを変えた。



 その夜、街では何も起きなかった。警報は鳴らず、部隊の移動も確認されていない。人々は規定通りの時間に帰宅し、規定通りに灯りを消した。何も起きていない。それは事実であった。だが、沈黙の内部で、わずかな変化が始まっていた。まだ行動には至らない。統計にも、報告書にも、人々の噂にもならない。ただ、いくつかの場所で、人々が同じ言葉を思い出していた。



『風は命令を受けない』

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