白華流離奇譚 -その手が、空になるまで-

風花《かざはな》

その手が、空になるまで

 かつて、俺は誰かに手を引かれていた。


 小さく、弱く、なにも知らなかった頃のことだ。あの手の温もりを、俺は今でも覚えている。


 長兄と俺は母親が違う。色ボケじじいの父親には子供が十五人もいて、そのほとんどは母親が違った。俺にとって『家族』と呼べたのは、歳の離れた長兄ただ一人だった。


 遠い記憶の中で優しい声がささやいた。


『本当に一人で行く気かい? 赤鴉セキア……』

『当ったり前だろ、兄上。旅こそ男の浪漫、ってな。世界は未知であふれてる。俺はこの目でそれを確かめたいんだ』


 十五歳の旅立ちの日に、抜けるような青空の下で、俺はためらいもせずに長兄の引く手を振り解いた。もう二度と、会えなくなるとは思いもせずに──。


 当時の俺は世間知らずの子供で、あの長兄なら一人でも大丈夫だと、なんの根拠もなく頭から信じ込んでいた。本当は大丈夫じゃなかったのに。


 傍に居れば、あのとき手を振り解かなければ、なにかが違っていたのだろうか。悪夢は寝ても覚めても俺をさいなんだ。


 それから三年後。俺は路地裏で拾った子供の手を引いていた。


『いいか、お前は俺が拾ってやる。光栄に思え』

『……あい』

『なんだよ、その間は』


 子供の名は白雅ハクガ。白くて、自分の名前に字面が似ていて、語呂がいい。それだけでつけた名前だった。その手は驚くほど小さく、それでも確かに、生きていた。


 白雅は歩くのが遅かった。俺が一歩進めば、二歩分、腕を引かれる。それでも手を放さなかったのは、それが俺にとって、初めて『守る側』になった証だったからだ。


 手の中の小さな温もりが、兄を亡くした俺の心を支えてくれた。だからこそ、死んでも守ると決めていた。

 だが、それは永遠ではないと、心のどこかで知っていた。


 二十五歳のとき、俺は白雅の手を、静かに離した。あのときほど、自分の手が空になる音を、はっきりと聞いた日はない。


 二年後、白雅の手を離した俺の手には、国民がいた。責任が一気に双肩そうけんにのしかかってきた。


 王宮に戻ったとき、戸惑いはなかった。玉座の前に立てば、自然と背筋が伸び、声の高さも、間の取り方も、かつてのそれに戻っていた。


 礼法も、政務も、言葉の選び方も、身体が覚えていた。忘れたつもりでいたものは、ただ眠っていただけだった。


 剣を捨てる必要もなかった。血にまみれたことのある手で書簡を読み、署名をし、民の前に立った。

 その手は、剣も、責任も、すでに知っていた。どちらも、俺にとっては『選んだ手』だった。


 国の新たな顔にするためだけに、俺を迎えに来た文官の緋煉ヒレンと二人で、反乱を断ち、侵略には剣で応じ、民の声には耳を傾け、必要とあらば法を改めた。

 そのたびに、眠れない夜が増え、剣よりも重い決断を、何度もこの手でくだしてきた。


 それでも、愛した女性以外を妻に迎えることも、世継ぎをもうけることも、俺は御免ごめんだった。それだけは、どんな王命でも、どんな正論でも、譲れなかった。だが、そのために国民を切り捨てるわけにはいかない。


 だから、国の民主化を推し進めることにした。


 王であり続けなくとも、国が続く形を、俺は選んだ。それが、嘘をつかずに生きるための、唯一のやり方だった。


 そして、最後に玉座を手放した。四十二歳の秋のことだった。


 赤鴉の手は、今、空いている。

 その手が、もう二度と誰かの手を引くことはないかもしれないと、俺はまだ、確かめずにいる。


 小さな白い羽根が、ひらりと赤鴉の手に舞い降りた。

 俺はそれを、振り払わずに、ただ受け止めた。

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白華流離奇譚 -その手が、空になるまで- 風花《かざはな》 @kazahana_ricca

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