第3話⋯色なき檻のルール

​ 静寂が、粘りつくような重さを持って本殿に満ちていた。

 私の目の前には、不気味なほど白い布で目を覆った二頭の巨大な狛犬。

 そして、ポテトチップスを咀嚼する音を響かせながら、子供のような笑みを浮かべる監視子。

 一段高い場所では、泥眼権現神が、忌々しげに私から視線を逸らしている。

 あまりに現実味のない光景に、私の心臓は壊れた時計のように不規則な音を立てていた。


 ​「……ワンコって、これが?」

 ようやく絞り出した私の声に、監視子は「そうだよぉ。」と楽しげに頷いた。

 「こっちがショートケーキ、そっちがロールケーキだよぉ。ボクと一緒に、でっちゃん…泥眼権現神を見張るのが仕事の犬たちさ。」

 監視子がそう言った瞬間、二頭の狛犬が、わずかにグルルと喉を鳴らしたような気がした。

 目隠しをされているはずなのに、布越しに鋭い視線が私の肌を刺し貫く。

 「見張る?てか、なんで⋯ケーキ?」

 「そうだよぉ。でっちゃんは、放っておくとすぐに泥の中に引きこもって、憎しみを煮詰めちゃうからね。もし彼が暴走したら、このワンコたちが噛み殺して止める。それがボク⋯本体の大山津見神との約束なんだぁ。ケーキが名前なのはねぇ、ボクが好きだからだよっ。」

​ さらりと言われた言葉の恐ろしさのあとに、子供のような可愛らしい言いかたで名前の由来を言われて反応に困った。

 ちらりと泥眼権現神を見ると、彼は猫背をより深く丸め、自らの指先を見つめている。

 「……勝手に喋るな、ジジィ。」

 「いいじゃん。これからここで一緒に暮らすんだから、ルールは知っておかないと。ねぇ、愛音ちゃん?」

 監視子は私の周りを、重力がないかのような軽やかな動きで一周した。


 「ここは『忘却神宮』。人間の世界にある忘却神宮とは違って、鏡の中にあるでっちゃんのためだけの隔離施設だよ。ここには、人間が生きるために必要な『時間』がない。朝も夜もないし、お腹も空かない。もちろん、老いることもない。」

 「……お腹が空かない?」

 空腹を感じないという響きは、救いよりも底知れない恐怖を感じた。

 生理現象すら奪われるということは、人間であることをやめさせられるのと同じではないか。


 ​「ただし!」

  監視子が人差し指を立てて、私の鼻先に突きつけた。

 「人間の精神は別だ。何もしないでいると、心だけが腐って、この世界の藍色に染まって消えてしまう。だから、愛音ちゃん。君にはここで、二つの仕事をしてもらうよぉ。」

 「仕事……?」

 「ひとつは、でっちゃんの『お相手』。彼が退屈して、外の世界に泥を溢れさせないように話し相手になってあげること。そしてもうひとつは…。」

 「掃除だ。」

 遮るように、泥眼権現神が重い口を開いた。彼は藍鉄色の瞳をわずかに細め、本殿の隅に溜まった黒い澱み、彼自身から溢れ出た泥を指差した。


 「俺から溢れる憎しみは、この鏡の世界を汚す。それが溜まれば、お前は立っていられなくなるだろう。それを掃き清めるのが、お前の役目だ。」

​ 私は、足元に広がる墨色の世界を見渡した。

 掃除にお相手。

 まるで古臭い住み込みの奉公だ。

 「待って。そんなの勝手に決めないでよ。さっきも言ったけど、私はあんたの物じゃない。ネイリストになる夢があるの。いつかここを出て、東京に戻るんだから」

 「…無駄だ。一度ここへ入った生者は、俺が許さぬ限り、現世へは戻れん。」

 泥眼権現神はそう言い捨てると、音もなく立ち上がった。彼の背後で、ショートケーキとロールケーキが連動するように身を起こす。

 「飽きた。俺は奥へ戻る。あとは適当にしろ。その女が勝手に死のうが、消えようが、構わん。」

​ 彼は一度もこちらを振り返ることなく、本殿の奥へと続く暗い廊下へと去っていった。

二頭の巨大な狛犬も、布越しに漂う冷徹な圧迫感を残したまま、その後を追うように闇の中へ消えていく。

​ 広大な本殿に取り残されたのは、私と、ニヤニヤと笑い続ける監視子だけだった。


 「あーあ、行っちゃった。でっちゃんってば、照れちゃってさぁ。」

 「どこが照れてるのよ、あれ。どう見ても追い払われただけでしょ。」

 私は、力が抜けてその場にへたり込んだ。

 冷たい畳。色のない天井。現実味のない会話。

 これまでの二十一年間で積み上げてきた常識が、泥に呑み込まれて溶けていく。

 「さて、それじゃあ部屋の案内をしてあげるよ。愛音ちゃんの『城』になる場所だ。」

​ 監視子はスキップでもしそうな足取りで歩き出し、私に付いてくるよう促した。

 本殿を抜けて続く渡り廊下は、どこまでも白と黒の階調だけで構成されていた。

 右手に広がる中庭らしき場所も、石も木もすべてが石炭のように黒く、あるいは雪のように白い。

 「監視子さん、さっき、でっちゃんの『爪』の話をした時、あいつ変な顔したよね」

 「あはは、そうだね。自分の爪なんて気にしたこともなかったんだろうさ。彼は江戸の昔からずっと、誰かに道具として使われるか、怪物として恐れられるかのどちらかだったからね。…愛音ちゃんみたいに『客』として見る人間なんて、でっちゃんの長い寿命の中でも君が初めてだよ。」

​ 廊下の突き当たり、一際古い木の扉の前で監視子が止まった。

 「はい、ここ。君の部屋だよ。元々は、神主が籠りきりで祈祷をするための部屋だったんだけどね。この空間には不要の部屋だから空き部屋だったのさ。」

 監視子が扉を開くと、そこは六畳ほどの小さな和室だった。

 驚いたことに、その部屋だけは、わずかに色彩が残っていた。

 壁に掛けられた古びた掛け軸には淡い朱色がさし、机の上には埃を被った古い手箱が置いてある。

 「ここなら、でっちゃんの泥の影響も少ない。落ち着いて『魔法の修行』ができるんじゃない?」

 監視子はそう言って、悪戯っぽくウィンクした。

 「……魔法じゃない。ネイルだよ。」

 私は、部屋の真ん中に置かれた小さな机に歩み寄った。

 ここには母もいない。父もいない。

 持ってきたはずのネイル道具もない。

 けれど、あの泥まみれの神様が、私の名前を「ないもの」にしようとした時の怒りだけは、まだこの胸の奥で熱く燃えている。


 ​「監視子さん。ここには、筆とか、色を塗る道具はある?」

 私の問いに、監視子は少しだけ驚いたような顔をし、それからこの日一番の人間らしい笑みを浮かべた。

 「…面白いね。神様に喧嘩を売った女の子が、最初に欲しがるのが武器じゃなくて絵筆だなんて。」

 「武器だよ。これが私の一番強い武器なんだから。」

​ 監視子が去った後、私は一人、藍色の闇が広がる窓の外を見つめた。

 流されやすい私。

 でも、この色のない世界に流されて、消えてしまうことだけは選ばない。

 爪の一枚分でもいい。

 この「忘却神宮」に、私の色を刻んでやる。

 それが、絶望の泥に沈められた私が、再び「明日」を掴み取るための、たった一つの戦い方だった。

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泥に沈むは藍鉄の恋瞳 未之るい @minorui

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