第2話⋯鏡の向こうの忘却神宮

​ 深い泥の底へ沈んでいくような、不快な浮遊感の後だった。

 全身の皮膚を冷たい何かが這い回る感覚に、私はたまらず激しく咳き込んだ。

 「げほっ、ごほっ……! なに、これ……」

 肺に溜まった冷たい空気を吐き出し、私は硬い床の感触を頼りに這いつくばった。

 指先に触れるのは、ささくれだった古い畳の感触だ。

 ゆっくりと視界が開けていく。


 そこには、つい数分前までいたはずの「忘却神宮」の本殿が広がっていた。けれど、何かが決定的に違う。

​ 色が、ないのだ。

​ 使い込まれたはずの柱も、古びた畳も、天井の装飾も。すべてが墨絵のように白と黒、そして深い藍色に沈んでいる。

 本殿の開け放たれた扉から外を覗けば、そこには鬱蒼とした森も、参道の石段もなかった。ただ一面、星すらも存在しない濃い藍色の空が広がり、風の音ひとつ聞こえてこない。

 まるで、世界がそのまま神鏡の中に吸い込まれ、永遠に静止してしまったかのような……そんな場所。


 ​「……目覚めたか、小娘」

​ 冷淡な声が、低い天井に反響した。

 振り返ると、一段高い上座に、あの男が座っていた。

 猫背で、ボサボサの藍鉄色の髪をゴム一本で下の方に括った男、泥眼権現神。

 薄暗い闇の中では気づかなかったけれど、近くで見ると彼の肌は病的なほど白く透き通っている。

そしてその瞳は、泥色と藍鉄色のダイクロイックアイ。

一方はかつての輝きの残滓か、もう一方はすべてを呑み込む泥の怨念か。

 彼が指先を動かすたび、その手元から黒い霧のような泥がさらさらと畳に零れ落ちては消えていく。


 ​「ここ、は……。お父さんは? おじいちゃんはどこ!?」

 私は震える声で問いかけた。

 自分の声が、この無機質な空間で異様に浮いているのがわかる。

 「鏡の裏側だ。俗世から切り離された、俺だけの檻……『もう一つの忘却宮』とでも呼べばいいか。あの一族の男たちは、あちら側の世界に置いてきた。」

 「帰して。私、明日も学校があるの……。検定だって近いんだから!」

 「学校、だと?」

 泥眼権現神は、おかしそうに、けれど全く笑っていない目で私を射抜いた。

 「先ほど、自分の口で言ったはずだ。誰の物にもならぬ、と。ならば、俺も一族の勝手な願いなど知ったことではない。一族は救ってやった。代わりに、お前の時間はここですべて止まる。お前の言う『明日』など、ここには永遠に来ない。」

​ 絶望が、背中を冷たく駆け上がった。


 ネイリストになるための勉強。友達と交わした「絶対にサロンを開こうね」という約束。そして、何より、亡くなった母の形見であるネイル道具一式。

 それらすべてが、あの「現実」という場所に置き去りにされてしまったのだ。


​ 「そんなの……身勝手すぎる! 先祖が何をしたか知らないけど、私には関係ない。私はただ、自分の人生を生きたいだけなのに!」

「関係、あるのだ。お前がその男の血を引いている限り、その魂の輝きは俺の空腹を刺激する」

 彼は音もなく立ち上がると、ゆらりと私の目の前まで降りてきた。


 ひんやりとした泥の匂いが鼻を突く。

 「お前の指先の動き、その気の強さ。……俺を創ったあの男に、反吐が出るほどよく似ている。あいつは俺を美しいと愛でながら、その裏で数多の首を跳ねさせ、俺を腐らせた」

 泥眼権現神の手が、ふらりと私の顔に伸びてきた。私は恐怖で思わず身をすくめる。

 けれど、その手は私に触れる直前で止まった。彼の指先が、わずかに震えているように見えた。それは怒りなのか、それとも、自分ですら気づいていない別の感情なのか。

 ​「……面白い。俺の理性を、これほどまでに逆なでする人間は数百年ぶりだ。お前がこの色なき世界で、どう絶望し、枯れていくのか。この泥に染まっていく様を、じっくりと見極めてやる。」

 彼の瞳に、深い藍色の光が渦巻いた。

 「お前はもう、田中愛音ではない。俺がこの底なしの闇へ引き摺り込んだ、名もなき所有物だ。」

​ その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、何かがパチンと弾けた。


 私はいつも流されるまま生きていた気がする。母を失った悲しみも、祖父に連れてこられた理不尽も、心のどこかで諦めて受け入れようとしていた。

 でも、この男だけは違う。

 私の夢も、名前も、全部を「ないもの」として扱おうとするこの神様だけは、絶対に許せない。

 ​「……ふざけないで。」

 私は、震える膝を両手で叩き、ぐっと力を込めて立ち上がった。

 泥眼権現神の視線と、真っ向からぶつかる。

 「私は、誰の物にもならないって言ったでしょ。あんたがどれだけ凄い神様か知らないけど、私の人生の価値を決めるのはあんたじゃない、私よ!」

​ 泥眼権現神の眉が、わずかに動いた。

 ​「名前だって捨てない。私は田中愛音。お母さんが褒めてくれるような最高のネイリストになるの!……いい、よく見て。あんたのそのボロボロで、ささくれた、色気のない爪。いつか私が、あんたが驚くくらい綺麗に塗り替えて、色を取り戻させてやるんだから!」

​ 静寂が、本殿に落ちた。

 ​「……お前、正気か。」

 泥眼権現神が低く唸るような声を漏らした、その時だった。


 ​「ひゃーっはっはっは! 最高だねぇ、愛音ちゃん! でっちゃん、顔、顔! 傑作だよ!」

​ 静寂を切り裂いたのは、あの不謹慎な、幼い笑い声だった。

 本殿の入り口に、さも楽しそうに腰掛けているのは、ポテトチップスの袋を抱えた「監視子」だった。彼は足をぶらぶらさせながら、こちらの様子を眺めていた。

​「小童クソジジィ……勝手に入ってくるなと言ったはずだ」

 泥眼権現神が、心底嫌そうに顔を歪める。

「いいじゃん、お隣さんなんだから。ボクだって、でっちゃんが女の子を連れ込むなんて珍しいイベント、見逃すわけないでしょ?」

 監視子はひょいと畳に飛び降りると、私の隣までやってきてニヤリと笑った。

​ 「言っとくけど、愛音ちゃん。でっちゃんはああ見えて結構ナイーブなんだから、あんまりいじめてあげないでね。で、紹介するよ。ボクの連れ。」

​ 監視子が指差した背後。


 そこに、二つの巨大な影が立っていた。

 それは、本物の獣か、それとも動き出した石像か。

 身の丈は二メートルを優に超え、筋骨隆々とした体躯に鋭い爪。しかし、その顔の半分は、真っ白な、不気味なほど清潔な布で厳重に覆い隠されている。

​ 二匹の「狛犬」が、一切の物音を立てずに、そこに控えていた。

 目隠しをされたその顔は、表情を一切読ませない。けれど、向けられた殺気とも、あるいは静かな観察ともとれる冷徹な気配に、私は呼吸を忘れた。


 「⋯あっ。」

 私がようやく絞り出した小さな声に、監視子は人懐っこい、けれどどこか空虚な笑みを浮かべた。

「ボクと、この『ワンコたち』も、今日からよろしくね。ここは退屈な場所だけど、愛音ちゃんが飽きないように、ボクらも協力してあげるよ」

​ 泥眼権現神は忌々しげに顔を背け、目隠しの狛犬たちは微動だにせず私を見据えている。


 神鏡の中の、色を失った世界「忘却神宮」。

 私の、神様との最悪で、逃げ場のない「檻の中の生活」が、今、本格的に幕を開けた。

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