泥に沈むは藍鉄の恋瞳

未之るい

第1話⋯最後の一人と神の執着

 田中愛音(たなか あいね)は、斎場のパイプ椅子に座り、ただ黒い祭壇を見つめていた。

 私は、都内のネイリスト専門学校に通う、ごく普通の学生だ。

 母の爪をよくネイルしていた。そして、母は「愛音に塗ってもらうと、指先から魔法がかかったみたいに元気になる。」と笑ってくれた。

 だからこそネイリストになろうと思えたし、母の爪をこれからも塗れるんだと思っていた。

 でも母はもうこの世にいない。

 私はその気持ちとまだ向き合えていなかった。

 (流されやすい私は、この気持ちもいつか流れていくのかな。)


 ​その葬式に、一人の老人が現れた。

 母の父のらしく、私にとっては初対面の祖父だ。

 祖父は重苦しい和装に身を包み、都会の斎場の中でそこだけが別の時代の空気を纏っているようだった。


 ​「この子は、連れて帰らねばならん。神々に問わねば、一族が滅ぶ。」

 ​祖父の言葉に、父は激昂した。

 「ふざけるな! 妻は、あの神社から逃げるために人生をかけたんだ。愛音には、愛音の人生がある!」

 ​「……ならば、神々に直接聞きに行くが良い。もし神が赦すと言うのなら、これ以上は追わない。」

 そんな会話が葬式の終わり際に、会場に響き渡っていた。


 ​葬儀が終わり、私は父と祖父に連れられ、母の故郷へと向かうことになった。

 「これから俺が神主として仕えてる神社に向かう。」

 祖父の車で向かってる道中に祖父が言った。

 「あ、うん。」

 私は何も事情を説明されていなかった。

 しかし、父と祖父の険悪な空気や先ほどの会話から「何か重大な揉め事がある。」とは察していたが、ただの帰省だと思い込もうとしていた。


 ​辿り着いたのは、深い霧に包まれた山奥の神社―「忘却神宮(ぼうきゃくじんぐう)」。


​ そこは、今の現代とは思えないほど湿り気を帯びた場所だった。

 地元の人間ですらその由来を知らず、今はただ「憎しみを鎮めるパワースポット」として人気があるらしい。

 けれど、私にはそこが、獲物を飲み込む巨大な口のように見えた。


​ 祖父に案内され、本殿の奥へと入る。

 そこは、外の光が一切届かない、冷たい闇が支配する空間だった。

「あぁ……やっと来たねぇ。待ちくたびれたよぉ。」

​ 不意に、子供のような高い声が響いた。

 闇の奥から現れたのは、小さな子供の姿をした男だった。


 「ここ忘却神宮に祀られている泥眼権現神(でいがんごんげんのかみ)と共に末社として祀られている、この土地の鎮守神・大山津見神の分霊だ。監視子(かんしこ)様と呼んでいる。」

 祖父は父や私に教えてくれた。

 彼はポテトチップスを無造作に食べながら、おちょくるような笑みを私に向けた。

 ​「でっちゃーん! ほら、新しい神主候補の登場だよっ!」

 ​彼が呼びかけると、その奥に座っていた何かが、ゆっくりと動いた。


 猫背で、ボサボサの藍鉄色の髪をゴム1本でまとめている1人の男。

 彼の瞳は泥色と藍鉄色が同時に存在しているダイクロイックアイをしている。

 何を考えているか分からない瞳で私を見た。

 彼が​泥眼権現神(でいがんごんげんのかみ)らしい。


 そこから、その神たちと私たちが向き合うように座り、話し始める。

 この時、私は初めて自分の家系の「罪」を知らされた。

 江戸時代、私の先祖がこの神を「道具」として人間の手で神を創り、私欲のために殺人を命じ続けたこと。

 そのせいでこの神を鎮守神が妖怪へと堕ちさせたこと。

 しかし、妖怪になった彼はもっと暴走していた。

 そのことを知った鎮守神が、その責任を元凶の本人やその一族に負わせるため、「永久にこの神を祀り続けろ。」という呪いをかけたこと。

 泥眼権現神という新しい名で再び神として、その彼にとって因縁となる一族に見守られるようになった。


​ 「私は…、私の代でこれを終わりにしたいのです。」

 祖父が震える声で懇願した。

 「娘は死んだ。残された孫にまで、この泥まみれの檻を引き継がせるわけにはいかない。どうか、愛音を…私の一族を、赦してはいただけないか。」

 ​父も必死に叫ぶ。

 「愛音は神主になんかならない! 彼女には夢があるんだ! 神様なら1人の人間の人生を奪わないでくれ!」

 ​2人の必死な訴えを、監視子はニヤニヤしながら見ていた。

 「ボクはいいよぉ? でっちゃん(泥眼権現神)がそれでもいいなら、今日でおしまいにしてあげる。」

 ​すべてが私の頭の中を通り過ぎていく。

 神を創り、汚し、そして再び祀り上げた一族。

 その末裔としての私。


 目の前に座っていた泥眼権現神が、ゆっくりと立ち上がった。

 その瞳が私を貫く。

​ 「…終わらせたい、か。この血脈を救いたい、と。神を散々弄んだ末に自分たちだけが救われようというのか。」

 ​彼の口元が、わずかに歪んだ。

​ 「ならば提案がある。…現神主の代で終わりにしてやる。その代わり、この小娘をこちら側へ差し出せ。神主としてではない。俺と同じ『人ではないモノ』として、この泥の底へ沈めるなら…お前たちの代で、この役目は終わらせてやろう。」

​「なっ…!?」

 祖父と父の顔が蒼白になる。

 私を救うために終わらせようとしたはずが、私そのものを差し出せという最悪の条件。

 本殿の空気が、凍りつくような緊張に支配された。

 誰もが泥眼権現の圧倒的な神威に圧され、言葉を失う。

 ​その沈黙を破ったのは、私の叫びだった。


​ 「いい加減にしてよ!!」

​ 私は、一歩前に踏み出した。恐怖よりも、自分の人生を勝手に切り売りしようとする大人たち、そして神様への憤怒が勝った。

​ 「なんで誰も、私の意見を聞こうとしないの!? お父さんもおじいちゃんも、私を子供扱いして、勝手に私の運命を決めないでよ! 私はもう21歳の大人なんだよ! 私はネイリストになるの! 自分の力で生きていくって決めてるの!」

 ​私の瞳は、泥眼権現神の闇に負けない強い意志の光を宿していた。

​ 「神様も神様だよ! 何が、貰う⋯だよ! 私の人生は私のものなの。あんたの復讐の道具にも、誰かを救うための生贄にもならない。神主にも、あんたの物にも…絶対にならないから!」

​ 私の声が本殿に響き渡り、監視子すらも驚いたように食べる手を止めた。

 けれど、泥眼権現神だけは、その言葉を聞いて表情を変えなかった。

 いや、その瞳の色が、より一層濃く、底知れない執着を持って渦巻いた。


 「⋯つまらぬ。」

​ 泥眼権現神が、低く、冷淡に言い放つ。

 ​「だからこそ、お前を貰うとする。己を貫くその魂ごと、俺の孤独な永劫の中へ引き摺り込んでやる。」

 ​「え…?」

 ​反応する間もなかった。泥眼権現神の手が、不自然なほど素早く伸び、私の腕を掴んだ。その指先は氷のように冷たく、泥の匂いが鼻をついた。

​ 「愛音!!」

 父が叫び、飛びかかろうとしたが、泥眼権現神の足元から噴き出した泥が激流となって2人を押し戻した。

 粘り気の強い黒い泥が、床を一瞬で底なし沼へと変えていく。

​ 「なに⋯これ。」

 必死に抗ったけれど、彼の力は絶対的だった。

 彼は猫背のまま、私の身体を軽々と抱え、本殿の奥、闇の向こう側へと足を踏み入れた。


​「愛音!」

 父の叫びが遠のいていく。

 泥眼権現神は私を連れたまま、闇の中に溶けるように消えていった。


 ​残されたのは、泥に塗れた拝殿と、愛する者を奪われた絶望の中に立ち尽くす2人の男。そして、監視子がどこか清々しげな声を響かせた。

 ​「あーあ。連れてっちゃったね。…でも、これでお前たち一族の罰は終わりだ。最後の1人が神(あいつ)の物になったことで、この血の呪いはすべて清算された。…お疲れ様。」

 ​監視子の姿が、陽炎のように薄れていく。

 その声が消えると同時に、本殿に溢れていた泥も、すべてが幻のように消え去った。

 ​忘却神宮には、ただ静寂だけが戻ってた。

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