17/
再発は単発では終わらなかった。
最初の現場から二日後、別の区画で似た報告が上がった。規模はさらに小さい。警報は出ていない。市民からの通報でもない。定期巡回の測定で引っかかっただけだ。だから最初、誰も重要視しなかった。
わたしが気づいたのは、一覧表を眺めているときだった。
防染済み案件の経過観察ログ。通常なら、解除後は数値が安定して、以降は記録の行数も減っていく。現場は「終わった」ものとして扱われる。それが正しい運用だ。そう教わってきたし、そう回してきた。
ところが、終わったはずの案件が、また行を増やしている。
一件、二件なら誤差だ。測定者の癖や、環境条件の違いで説明がつく。だが、三件、四件と並ぶと無視できなくなる。しかも、色相が近い。彩因の挙動が似ている。場所は違うのに、残り方が似ている。
「……点じゃない」
独り言が自然に出た。
点じゃない。偶発でもない。線――という言葉が、もう比喩としてじゃなく、思考の道具として頭に居座っている。あの日路面の目地で見た線は、わたしの感覚の中だけのものじゃなかった。
わたしは端末を操作し、再発と判断されなかった微弱残留案件も含めて抽出した。規定値内で、処理不要とされたもの。報告書の備考欄に、曖昧な言葉が残っているもの。
――違和感あり
――念のため経過観察
――再測定予定
それらを地図上に重ねる。最初はバラバラに見えた点が、少しずつ意味を持ち始める。直線じゃない。きれいな形でもない。だが、連なっている。都市の構造に沿うように、境界に沿うように。
「……割れ目」
ハイマが言った言葉が、遅れて効いてきた。
世界が一枚岩だと思っていたのは、わたしたちの都合だったのかもしれない。もともと細かなひびは入っていて、そこに色が溜まり始めただけ――そう考えると、説明がつくことが増える。
増える、というのが嫌だった。説明がつく、というのは安心のはずなのに、今回は逆だ。説明できる形になっていくほど、戻れない感じが強くなる。
昼前、上からの呼び出しが入った。定例の情報共有会議。形式上は「現場状況の確認」だが、実態は制度側の空気を伝える場でもある。
会議室は白い。壁も机も光も色がない、安全な色。ここでは感情も彩因も扱われない。扱われるのは数字と文言だけだ。
再発案件についてわたしは事実だけを述べた。件数が増えていること。規定内だが、分布に偏りがあること。外部再汚染では説明しにくいこと。
誰も否定しなかった。その代わり、誰も踏み込まなかった。
「現時点では、制度上の対応変更は不要でしょう」
そうまとめられたとき、わたしは少しだけ息を詰めた。不要、という言葉が正しいのはわかっている。制度は、一定の閾値を超えなければ動かない。動かないから制度でいられる。
「現場では、追加の防染判断を控えています」
わたしがそう言うと、視線が集まった。控える、という判断は規定にない。やるか、やらないか。どちらかだ。
「理由は?」
「消す行為が残留を強める可能性があります」
空気が一瞬だけ止まった。誰も笑わない。誰も反論しない。ただ、その言い方が制度の外にあることだけが共有される。
「現時点では、仮説ですね」
上席の声は穏やかだった。否定ではない。確認だ。
「はい。仮説です」
仮説で現場を止めるのは危険だ。危険だからこそ、制度は仮説を嫌う。嫌うけれど、切り捨てもしない。その宙ぶらりんが、今の状況に似ていた。
会議はそれ以上深まらずに終わった。報告は受理された。対応は保留。様子見。念のため、という言葉が、また一つ増えた。
執務区画に戻ると、クルリが資料を整理していた。こちらを見ると、すぐに立ち上がる。
「分隊長、お疲れさまです」
「お疲れ。動きあった?」
「はい。先ほど、第三ブロックから追加の測定結果が入りました。数値は低いですが……」
彼女は言葉を選びながら、端末を差し出す。
「形が、少し似ています」
似ている、という言い方がもう共有されている。その事実に、わたしは小さく頷いた。
「ありがとう。まとめてくれて助かる」
クルリはほっとしたように息を吐いた。彼女は、正しく仕事が前に進む感覚を大事にする。だからこそ、今の状況は負担が大きいはずだ。
「分隊長」
「なに」
「これって……増えて、いるんですよね」
疑問形だけど、答えはもう出ている声だった。
「増えてる。まだ表に出ないだけで」
「……はい」
彼女はそれ以上聞かなかった。聞かない、という選択を覚え始めている。そのことに、安心と不安が同時に湧く。
夕方、ハイマと二人で再度ログを洗った。彼は数字を、わたしは配置を見る。役割分担は自然に決まっていた。
「傾向は確かにある」
ハイマが言う。
「でも、制度を動かすには弱い」
「わかってる」
「だから、現場で抱え込むことになる」
「……うん」
現場判断と制度判断。そのズレは、これまでもあった。けれど今回は、ズレの質が違う。これまでは速度の問題だった。今は方向の問題だ。
制度は、色を「異常」として扱う。出たら消す。消えたら終わり。一直線だ。
けれど現場で見えているのは、「異常」が定着し始めている兆候だった。消す・消えないの二択では捉えきれない。構造の側に入り込んでいる。
「線、って言葉さ」
わたしが口にすると、ハイマが視線を上げた。
「個人的な感覚だと思ってた?」
「最初は」
「今は?」
わたしは、地図に表示された薄い分布を見つめた。
「兆候だと思ってる。構造の」
ハイマは少しだけ口角を上げた。賛成でも反対でもない、評価の表情だ。
「いい言い方だ。兆候なら、まだ止められる」
「止められる、かな」
「兆候のうちはな。崩壊になったら無理だ」
崩壊、という言葉が、重く落ちた。まだ誰も使っていない言葉だ。使わないようにしている言葉だ。
夜になって、執務区画の人が減った。照明が落ち、白が少しだけ灰に近づく。わたしは机に残り、報告書の下書きを眺めた。
どこまで書くか。どこまで書かないか。
線、という言葉は使わない。兆候、という言葉もまだ早い。だが、連続性は示す必要がある。点ではない、と。
文章を削り、言い換え、また削る。制度に引っかからない言葉を探す作業は、思った以上に消耗する。色を消すより、言葉を消すほうが難しい。
ふと、幹部候補生だった頃の講義が頭をよぎった。黒板に引かれた一本の線。境界。溜まりやすい場所。あのときは理論だったが、今は現実だ。
わたしは報告書を保存し、端末を閉じた。
世界は、まだ壊れていない。
制度もまだ機能している。
ただ、その間に細いひびが走り始めている。
それが点ではなく連なった線であることに、わたしだけが気づき始めている――そんな自意識を、わたしは意識的に押し殺した。
個人的感覚で終わらせない。
兆候として扱う。
構造として捉える。
それができなくなったとき、現場は本当に壊れる。
わたしは席を立ち、消灯された廊下に出た。足音がやけに響く。色のない夜の中で、見えない線だけが確実に増えていく気がしていた。
本部の夜勤は、昼とは別の顔をしている。
照明は落とされ、必要最低限のデスクだけが点々と灯っている。人の気配はあるのに、音が少ない。キーボードを叩く音や、紙をめくる音が、やけに大きく聞こえる。昼間なら気にも留めない雑音が、夜だと意味を持ち始める。
わたしは当直用の端末にログインし、夜勤帯の監視画面を確認した。通常の防染課の夜勤はほとんどが待機だ。緊急出動がなければ、記録の整理と翌日の準備で終わる。
――今夜も、そうなるはずだった。
アラートは、警報音を鳴らさなかった。表示が静かに切り替わっただけだ。右上に小さく出る「要確認」の文字。数値は低い。低すぎて、昼間なら自動的に弾かれるレベルだ。
それでも、わたしは画面から目を離せなかった。
「……また、か」
声に出した瞬間、確信に近いものが胸に落ちた。偶然じゃない。夜勤だから拾えた、という言い訳もできる。だが、それは裏を返せば、昼間は見逃されているということだ。
地点を確認する。昼間に見た線の延長上――とまでは言えないが、都市の構造としては同じ「境界」に属する場所だった。河川敷と住宅地の切れ目。再開発区画と旧市街の境界。用途の違う場所同士が接する線。
「……溜まるわけだ」
独り言は、もう否定しない。
夜勤帯の当直は、わたしともう一人だけだ。別部署の調査官が、少し離れた席で記録を見ている。彼は彩理の専門ではない。声をかければ、形式的な確認はできる。だが、今の違和感を共有できる気はしなかった。
共有したところで制度は動かない。
わたしはログを開き、過去三週間分の夜間検知データを重ねた。昼間の会議資料には入れていない部分だ。規定上は重要度が低い。だからこそ連続性が見える。
点が、また増えている。
しかも、増え方が一定だ。爆発的でもなく、減衰もしない。静かに、同じ調子で続いている。これは異常の兆候じゃない。異常が日常に組み込まれ始めている挙動だ。
「……終わりが、曖昧になる」
消したはずのものが消えきらない。終わったはずの現場が終わらない。防染という行為そのものが、境界をなぞる作業に変質しているような感覚。
わたしは当直日誌に、事実だけを書き込んだ。位置、時間、数値。感想は入れない。線、という言葉も使わない。使えば、個人的な思い込みとして処理される。
それでも、記録は残る。残り続ければ、いつか誰かが気づく。そう信じるしかない。
ふと、背後で椅子が軋む音がした。振り返ると、別部署の当直者が立ち上がっている。
「春野さん」
呼ばれ方が、昼とは違う。分隊長じゃない。夜勤帯の、個人名だ。
「何かありました?」
「いや……この時間帯、最近ちょっと多くないですか。要確認」
彼の画面にも、同じ種類の表示が出ていた。部署は違う。彩因の種類も違う。だが、扱いは同じだ。「要確認」。確認したところで、動かない。
「多いですね」
わたしはそれだけ答えた。彼は小さく頷き、また席に戻る。それ以上、話は広がらない。広げないほうが楽だ。夜勤は特に。
時計を見る。午前二時を回っている。人の集中力が落ちる時間帯だ。判断を先送りするには、都合がいい。
わたしはコーヒーを入れ直し、再び画面に向かった。眠気はないが、代わりに変に冴えている。こういうときは危険だ。考えすぎる。
それでも、考えずにはいられなかった。
線は、もう感覚じゃない。データとして存在している。薄く、しかし確実に。制度の隙間を縫うように、記録の外縁に溜まっている。
「無関心なほうが、安全」
昼間に浮かんだ言葉が、また頭をもたげる。夜勤帯の本部は、その言葉を肯定する装置みたいだ。警報が鳴らなければ、問題は存在しない。数値が低ければ異常はない。
それで社会は回る。少なくとも、今までは。
わたしはふと、もし自分がこの線を見なかったらどうなるかを想像した。見なければ、考えなければ、報告しなければ、仕事は楽になる。現場判断と制度判断のズレも、意識しなくて済む。
でも、見てしまった。
見てしまった以上、なかったことにはできない。わたしはイロドリ調査官だ。色を消すためにここにいる。その前段階で、兆候を見逃すことは、消す仕事そのものを壊す。
「……やり方が、変わってる」
誰に向けた言葉でもない。制度に対してでも、色に対してでもない。自分自身への確認だ。
夜明け前、もう一件、同じ種類の表示が出た。場所は違う。だが、やはり境界だ。住宅地と商業区の切れ目。用途の違い、人の流れが変わる場所。
これで、今夜だけで三件。
偶然、と言うには多い。だが、緊急、と言うには弱い。その中間にあるものを、制度は扱えない。
わたしは全件をまとめ、夜勤報告として上げた。件数が多いことは書く。連続性を匂わせる程度に留める。判断は、明日に委ねる形になる。
端末を閉じ、椅子にもたれた。天井の照明が、少しだけ眩しい。白い光。安全な光。
世界は、まだ壊れていない。
けれど、戻れる場所が、少しずつ減っている。
夜勤が終わる頃、空がわずかに白み始めた。朝が来る。朝が来れば、また会議があり、報告があり、制度が動くか動かないかの話になる。
わたしは立ち上がり、静かな廊下を歩いた。足音が反響する。昼には聞こえない音だ。
線は、夜のほうがよく見える。
そして、見えてしまった線は、朝になっても消えない。
それだけは、もうはっきりしていた。
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無彩の国家 谷本真人 @Murimuridondon
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