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 再発は単発では終わらなかった。

 最初の現場から二日後、別の区画で似た報告が上がった。規模はさらに小さい。警報は出ていない。市民からの通報でもない。定期巡回の測定で引っかかっただけだ。だから最初、誰も重要視しなかった。

 わたしが気づいたのは、一覧表を眺めているときだった。

 防染済み案件の経過観察ログ。通常なら、解除後は数値が安定して、以降は記録の行数も減っていく。現場は「終わった」ものとして扱われる。それが正しい運用だ。そう教わってきたし、そう回してきた。

 ところが、終わったはずの案件が、また行を増やしている。

 一件、二件なら誤差だ。測定者の癖や、環境条件の違いで説明がつく。だが、三件、四件と並ぶと無視できなくなる。しかも、色相が近い。彩因の挙動が似ている。場所は違うのに、残り方が似ている。


「……点じゃない」


 独り言が自然に出た。

 点じゃない。偶発でもない。線――という言葉が、もう比喩としてじゃなく、思考の道具として頭に居座っている。あの日路面の目地で見た線は、わたしの感覚の中だけのものじゃなかった。

 わたしは端末を操作し、再発と判断されなかった微弱残留案件も含めて抽出した。規定値内で、処理不要とされたもの。報告書の備考欄に、曖昧な言葉が残っているもの。

 ――違和感あり

 ――念のため経過観察

 ――再測定予定

 それらを地図上に重ねる。最初はバラバラに見えた点が、少しずつ意味を持ち始める。直線じゃない。きれいな形でもない。だが、連なっている。都市の構造に沿うように、境界に沿うように。


「……割れ目」


 ハイマが言った言葉が、遅れて効いてきた。

 世界が一枚岩だと思っていたのは、わたしたちの都合だったのかもしれない。もともと細かなひびは入っていて、そこに色が溜まり始めただけ――そう考えると、説明がつくことが増える。

 増える、というのが嫌だった。説明がつく、というのは安心のはずなのに、今回は逆だ。説明できる形になっていくほど、戻れない感じが強くなる。

 昼前、上からの呼び出しが入った。定例の情報共有会議。形式上は「現場状況の確認」だが、実態は制度側の空気を伝える場でもある。

 会議室は白い。壁も机も光も色がない、安全な色。ここでは感情も彩因も扱われない。扱われるのは数字と文言だけだ。

 再発案件についてわたしは事実だけを述べた。件数が増えていること。規定内だが、分布に偏りがあること。外部再汚染では説明しにくいこと。

 誰も否定しなかった。その代わり、誰も踏み込まなかった。


「現時点では、制度上の対応変更は不要でしょう」


 そうまとめられたとき、わたしは少しだけ息を詰めた。不要、という言葉が正しいのはわかっている。制度は、一定の閾値を超えなければ動かない。動かないから制度でいられる。


「現場では、追加の防染判断を控えています」


 わたしがそう言うと、視線が集まった。控える、という判断は規定にない。やるか、やらないか。どちらかだ。


「理由は?」


「消す行為が残留を強める可能性があります」


 空気が一瞬だけ止まった。誰も笑わない。誰も反論しない。ただ、その言い方が制度の外にあることだけが共有される。


「現時点では、仮説ですね」


 上席の声は穏やかだった。否定ではない。確認だ。


「はい。仮説です」


 仮説で現場を止めるのは危険だ。危険だからこそ、制度は仮説を嫌う。嫌うけれど、切り捨てもしない。その宙ぶらりんが、今の状況に似ていた。

 会議はそれ以上深まらずに終わった。報告は受理された。対応は保留。様子見。念のため、という言葉が、また一つ増えた。

 執務区画に戻ると、クルリが資料を整理していた。こちらを見ると、すぐに立ち上がる。


「分隊長、お疲れさまです」


「お疲れ。動きあった?」


「はい。先ほど、第三ブロックから追加の測定結果が入りました。数値は低いですが……」


 彼女は言葉を選びながら、端末を差し出す。


「形が、少し似ています」


 似ている、という言い方がもう共有されている。その事実に、わたしは小さく頷いた。


「ありがとう。まとめてくれて助かる」


 クルリはほっとしたように息を吐いた。彼女は、正しく仕事が前に進む感覚を大事にする。だからこそ、今の状況は負担が大きいはずだ。


「分隊長」


「なに」


「これって……増えて、いるんですよね」


 疑問形だけど、答えはもう出ている声だった。


「増えてる。まだ表に出ないだけで」


「……はい」


 彼女はそれ以上聞かなかった。聞かない、という選択を覚え始めている。そのことに、安心と不安が同時に湧く。

 夕方、ハイマと二人で再度ログを洗った。彼は数字を、わたしは配置を見る。役割分担は自然に決まっていた。


「傾向は確かにある」


 ハイマが言う。


「でも、制度を動かすには弱い」


「わかってる」


「だから、現場で抱え込むことになる」


「……うん」


 現場判断と制度判断。そのズレは、これまでもあった。けれど今回は、ズレの質が違う。これまでは速度の問題だった。今は方向の問題だ。

 制度は、色を「異常」として扱う。出たら消す。消えたら終わり。一直線だ。

 けれど現場で見えているのは、「異常」が定着し始めている兆候だった。消す・消えないの二択では捉えきれない。構造の側に入り込んでいる。


「線、って言葉さ」


 わたしが口にすると、ハイマが視線を上げた。


「個人的な感覚だと思ってた?」


「最初は」


「今は?」


 わたしは、地図に表示された薄い分布を見つめた。


「兆候だと思ってる。構造の」


 ハイマは少しだけ口角を上げた。賛成でも反対でもない、評価の表情だ。


「いい言い方だ。兆候なら、まだ止められる」


「止められる、かな」


「兆候のうちはな。崩壊になったら無理だ」


 崩壊、という言葉が、重く落ちた。まだ誰も使っていない言葉だ。使わないようにしている言葉だ。


 夜になって、執務区画の人が減った。照明が落ち、白が少しだけ灰に近づく。わたしは机に残り、報告書の下書きを眺めた。

 どこまで書くか。どこまで書かないか。

 線、という言葉は使わない。兆候、という言葉もまだ早い。だが、連続性は示す必要がある。点ではない、と。

 文章を削り、言い換え、また削る。制度に引っかからない言葉を探す作業は、思った以上に消耗する。色を消すより、言葉を消すほうが難しい。

 ふと、幹部候補生だった頃の講義が頭をよぎった。黒板に引かれた一本の線。境界。溜まりやすい場所。あのときは理論だったが、今は現実だ。

 わたしは報告書を保存し、端末を閉じた。

 世界は、まだ壊れていない。

 制度もまだ機能している。

 ただ、その間に細いひびが走り始めている。

 それが点ではなく連なった線であることに、わたしだけが気づき始めている――そんな自意識を、わたしは意識的に押し殺した。

 個人的感覚で終わらせない。

 兆候として扱う。

 構造として捉える。

 それができなくなったとき、現場は本当に壊れる。

 わたしは席を立ち、消灯された廊下に出た。足音がやけに響く。色のない夜の中で、見えない線だけが確実に増えていく気がしていた。


 本部の夜勤は、昼とは別の顔をしている。

 照明は落とされ、必要最低限のデスクだけが点々と灯っている。人の気配はあるのに、音が少ない。キーボードを叩く音や、紙をめくる音が、やけに大きく聞こえる。昼間なら気にも留めない雑音が、夜だと意味を持ち始める。

 わたしは当直用の端末にログインし、夜勤帯の監視画面を確認した。通常の防染課の夜勤はほとんどが待機だ。緊急出動がなければ、記録の整理と翌日の準備で終わる。

 ――今夜も、そうなるはずだった。

 アラートは、警報音を鳴らさなかった。表示が静かに切り替わっただけだ。右上に小さく出る「要確認」の文字。数値は低い。低すぎて、昼間なら自動的に弾かれるレベルだ。

 それでも、わたしは画面から目を離せなかった。


「……また、か」


 声に出した瞬間、確信に近いものが胸に落ちた。偶然じゃない。夜勤だから拾えた、という言い訳もできる。だが、それは裏を返せば、昼間は見逃されているということだ。

 地点を確認する。昼間に見た線の延長上――とまでは言えないが、都市の構造としては同じ「境界」に属する場所だった。河川敷と住宅地の切れ目。再開発区画と旧市街の境界。用途の違う場所同士が接する線。


「……溜まるわけだ」


 独り言は、もう否定しない。

 夜勤帯の当直は、わたしともう一人だけだ。別部署の調査官が、少し離れた席で記録を見ている。彼は彩理の専門ではない。声をかければ、形式的な確認はできる。だが、今の違和感を共有できる気はしなかった。

 共有したところで制度は動かない。

 わたしはログを開き、過去三週間分の夜間検知データを重ねた。昼間の会議資料には入れていない部分だ。規定上は重要度が低い。だからこそ連続性が見える。

 点が、また増えている。

 しかも、増え方が一定だ。爆発的でもなく、減衰もしない。静かに、同じ調子で続いている。これは異常の兆候じゃない。異常が日常に組み込まれ始めている挙動だ。


「……終わりが、曖昧になる」


 消したはずのものが消えきらない。終わったはずの現場が終わらない。防染という行為そのものが、境界をなぞる作業に変質しているような感覚。

 わたしは当直日誌に、事実だけを書き込んだ。位置、時間、数値。感想は入れない。線、という言葉も使わない。使えば、個人的な思い込みとして処理される。

 それでも、記録は残る。残り続ければ、いつか誰かが気づく。そう信じるしかない。

 ふと、背後で椅子が軋む音がした。振り返ると、別部署の当直者が立ち上がっている。


「春野さん」


 呼ばれ方が、昼とは違う。分隊長じゃない。夜勤帯の、個人名だ。


「何かありました?」


「いや……この時間帯、最近ちょっと多くないですか。要確認」


 彼の画面にも、同じ種類の表示が出ていた。部署は違う。彩因の種類も違う。だが、扱いは同じだ。「要確認」。確認したところで、動かない。


「多いですね」


 わたしはそれだけ答えた。彼は小さく頷き、また席に戻る。それ以上、話は広がらない。広げないほうが楽だ。夜勤は特に。

 時計を見る。午前二時を回っている。人の集中力が落ちる時間帯だ。判断を先送りするには、都合がいい。

 わたしはコーヒーを入れ直し、再び画面に向かった。眠気はないが、代わりに変に冴えている。こういうときは危険だ。考えすぎる。

 それでも、考えずにはいられなかった。

 線は、もう感覚じゃない。データとして存在している。薄く、しかし確実に。制度の隙間を縫うように、記録の外縁に溜まっている。


「無関心なほうが、安全」


 昼間に浮かんだ言葉が、また頭をもたげる。夜勤帯の本部は、その言葉を肯定する装置みたいだ。警報が鳴らなければ、問題は存在しない。数値が低ければ異常はない。

 それで社会は回る。少なくとも、今までは。

 わたしはふと、もし自分がこの線を見なかったらどうなるかを想像した。見なければ、考えなければ、報告しなければ、仕事は楽になる。現場判断と制度判断のズレも、意識しなくて済む。

 でも、見てしまった。

 見てしまった以上、なかったことにはできない。わたしはイロドリ調査官だ。色を消すためにここにいる。その前段階で、兆候を見逃すことは、消す仕事そのものを壊す。


「……やり方が、変わってる」


 誰に向けた言葉でもない。制度に対してでも、色に対してでもない。自分自身への確認だ。


 夜明け前、もう一件、同じ種類の表示が出た。場所は違う。だが、やはり境界だ。住宅地と商業区の切れ目。用途の違い、人の流れが変わる場所。

 これで、今夜だけで三件。

 偶然、と言うには多い。だが、緊急、と言うには弱い。その中間にあるものを、制度は扱えない。

 わたしは全件をまとめ、夜勤報告として上げた。件数が多いことは書く。連続性を匂わせる程度に留める。判断は、明日に委ねる形になる。

 端末を閉じ、椅子にもたれた。天井の照明が、少しだけ眩しい。白い光。安全な光。

 世界は、まだ壊れていない。

 けれど、戻れる場所が、少しずつ減っている。

 夜勤が終わる頃、空がわずかに白み始めた。朝が来る。朝が来れば、また会議があり、報告があり、制度が動くか動かないかの話になる。

 わたしは立ち上がり、静かな廊下を歩いた。足音が反響する。昼には聞こえない音だ。

 線は、夜のほうがよく見える。

 そして、見えてしまった線は、朝になっても消えない。

 それだけは、もうはっきりしていた。

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2026年1月18日 08:00
2026年1月19日 08:00
2026年1月20日 08:00

無彩の国家 谷本真人 @Murimuridondon

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